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[ 読書/BLコミック ]

小野塚カホリ・団鬼六『美少年』

 どうにも展開や物語が古臭く、あまり面白みもない。女言葉、女形などの、かつての直球ボール(なのか?)で現在では一ジャンルに縮小してしまったその形式が、いっそ昔なつかしい、と感じられるならばまだ面白みがあるんだけれど、どうにも斬新でもない感じ。そういう部分が古い、という印象につながるんかなぁと思いつつつらつら考えていて思いだした。

 これは以前も引用したことがあるのだけれど、浅田彰は福島次郎の『三島由紀夫 剣と寒紅』に関して「それは同性愛がタブーであったときにのみ辛うじて意味をもつ時代錯誤的な書物に過ぎないのである」(浅田彰【同性愛はいまだにタブーか】より)と述べている。浅田はこの部分の後に福島の「バスタオル」という同性愛を扱っている作品に関して、「私の見るかぎり、ここにあるのは社会の同性愛嫌悪(ホモフォビア)によって貧困化された性の、悲惨なまでに薄汚れた表現でしかない」と評してもいる(ちなみに「バスタオル」は芥川賞の候補になっている。

 BL読者の諸氏はお気づきかもしれないけれど、この福島次郎の「バスタオル」は鳥人ヒロミがそのタイトルのみからインスピレーションを得て「バスタオル」というBL漫画を描いたという例の小説である。そのような背景もあって、わたしは先に触れた浅田の福島への批判をついついBL作品との関連で考えてしまうのだが、そうすることで浅田の批判する福島の同性愛を扱った文芸作品とBL作品との違いが見えてくるように思う。もう少し具体的に言うと、浅田の評言は、では「同性愛がタブー」ではなくなった後に、その作品に何が残るのか?というテクストの強度への問いかけだとわたしは解釈しているのだけれど、その視点でBLというジャンルを見てみたい。

 さて、BLというのは、一応定義するならば同性愛を大前提としたエンタメの一ジャンルである。勿論そのエンタメとは少女漫画やある種のファンタジー、また勿論ポルノなど、様々な細分が可能なんだけど、ここで問題にしたいのはそこでなされる同性愛の描き方だ。私見では、BLというジャンルにおいては「同性愛」は大前提であってそれ以上でもそれ以下でもない(無論例外は沢山ある。ややBLに都合のよい言い方をすれば、BLは同性愛そのものを問題化していくのではなくて(時にはそれを問題化しつつも)その先で物語ろうとするジャンルなのである。同性愛が描かれているというだけでは最早BLの「物語」としては成立できない、と言えば明らかに言いすぎだろうが、少なくとも「それ」だけで泳ぎきれるほど浅く穏やかな海ではないはずだ。

 と、ややBLを持ち上げてみたところで、そこに持ち込まれた「美少年」についてふたたび考えてみた時に、やはりこれは同性愛そのものが描かれた、それだけの作品、として批判できるように思える(というか、作品レベルで考えた時には実は同性愛以前というか、「オカマ」との物語、しか描かれていないんだが…なので物語内容からも批判が可能だろうけれど、めんどいので今回はパス。だから、BLとして読むには古い、物足りない。

 漫画作品としての「美少年」について。よかったのはやはり小説が原作にあるためにか、ある程度の緻密さでの描写がなされていることだろうか。絵が小野塚カホリのあまりクセがない現代の普通の漫画絵であることに関しては、一長一短だな。この原作はもっと個性のキツい作家であればもっと昇華できたんではと思うと同時に、でもやっぱあまり料理しようもないかなとも思うから。あまり好きな絵ではないんだけど綺麗だと思うし。

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