...giornata...
硬く短い響きが、相次いでした。ふたつくらい。
どこかやや遠くで。閉じた瞼の中で眼をそちらのほうにやろうとしたら、薄い皮膚を透かして来る、蛇口を大きく捻ったみたいに溢れる光に飲みこまれて、途中でやめてしまった。
叩いた音。妙に近しい感覚のある。なんだかついさっき聴いて、そのときから時間が間を飛びこえて、縫い合わされてしまったみたいだ。あれはさっきなのか。それとも、いまなのか。いまってなんだ。
いや、今日は。
薄いまどろみのなかでアバッキオはもういちど思い出す。ひとつ年をとったのだ。誕生日は確かに、一年に一度しか廻ってこない、そして二度と繰り返されはしない、生き物なのだから、と、思ったところで、ごろんと寝返った、肩の骨と腰骨が少し痛い。床の上だった。
眠いわけじゃない。日だってすでに高い。からだに変なくすぐったさが残って――全部夢みたいな気もするのだけれど――それからきょうの昼があまりにも澄み渡って、太陽の光は雲で漉さない、原液の蜂蜜みたいに溢れてくるから、ついうとうとしてしまった。
貪っていたい。この日を。こんなふうに思うのはなぜだろう。たまに昼までゴロゴロしている日があったとしても、たいてい何も考えない。
ふっと首筋に力を入れて、頭だけ持ち上げた。考えるより先。また、音がした。
さっきから妙に間隔があいているような気がする。この変な待ち時間は何だ? 一度叩いて返事がなくて、すぐに二度目を叩くか、もう叩かない奴の顔しか浮ばない。
また反転して肘をついた。鍵はかけてない。床の上を髪が、さらさらと音たてて流れる。光を反射するから水みたいだ。いく筋にも分かれるけど、絡まりはしない。
びくん、と背中が反応して、顔を上げた。数秒にも満たず。
気配。ただものではない。静かに潜み、よく研いだ刃物のように鋭く薄い。
だけどそれは切れない。なぜなら切りつけようと思っていないから。
そんな気配だった。知らない、多分。けれどふたつめの特徴があきらかで、警戒しようにもあてがはずれて、それはその気配があまりに完璧に意志に満ちて澄み徹っていたからで、いったい何者なんだよ、と思うのも無粋な感じがして。
玄関からひとつしかないリビング兼ベッドルームまではドア一枚しかなく、それはなかば開いている。黒い細身のパンツ――繻子のように穏やかに光る――と細いボーダーのソックスがのぞくしなやかな黒い革の靴、が音もなく分けて進み出てきた。
弾かれるように視線を上げた。と、
「こんにちは」
「フーゴ」
というのが同時だった。すぐわかった。名前もすぐ出た。この八年――八年! の間に発音しなかったわけではないけれど、少なくとも呼びかけたことは、なかった。まのあたりにしたことも、なかった。八年! こいつは俺よりけっこう若くて、それだけにもちろん時間の経過はでかくて、もうこいつだと気づかない奴はふつうにいるだろうというくらいにそれはでかくて、でも、すぐわかった。記憶とかじゃない、感覚みたいなもんだ。
「そうです」少しも動じず、でも薄い水色の目の中に、やや驚きが現れている。
「おお」声にならないような相槌が出た。頬の線が鋭い。硬い。額もしっかりしている。何度かこうやって寝転んで見上げたことがあった――八年前からゴロゴロしてたってことかよ――目線が、遥か上で、相変わらず細いけれど、その細さに骨の硬さがあらわれている。輪郭線の質が違う。
薄いパープルの、大きめの水玉がプリントされたシャツを着ている。髪は色も、前髪なんかは雰囲気もそのままで、後ろは長く伸ばして束ねている。違う、と思っても、記憶の映像をオーバーラップさせるには、あまりにリアルだった。
フーゴだ。すぐわかった。
「久しぶり」と声を掛けた。「なんかすぐわかったけど」
間抜けだが、他になんとも言いようがない。
相手はすこし困惑したように微笑んだ。「どうも、いきなり来てしまって。……お久しぶりです」
「ほんとに、久しぶりだよな」
「ええ、ほんとに」
「戻って、来たのか」
「いや仕事で」ややあって続けた。「ほんとに、八年ぶりなんです」
葉書が来た、それはアジトの住所宛に届いていて、入り浸ってたミスタやチェックを怠らないジョルノが見つけて、そんなことが二、三回あっただろうか。いずれも消印はアメリカで、でも何も書いてなくて、にもかかわらず署名だけはしてあった。最後のには一行くらい書いてあった、文面は忘れた、決まり文句みたいな綺麗な文、幸運を祈る、とかそんな感じの。
「そうか、それで寄ったのか。まだ同じ住所に住んでるってよくわかったな。とりあえず来て見たとか」
「いや、あんまり何も考えなくて」
「らしくねえな」
「いや。……何だか同じ住所に住んでいるような気がして。というか同じ住所に住んでるひとがいるならあなただという気がして」
正解だった。唖然として、とっさに返事も出来ない。出来ないでいるうちに相手は言葉を継いだ。
「あなたはあまり変わってない。……少なくとも、ほかのひとの八年がそうであるようには」
「そうか?」確かに髪型も変わっていないし、身長だって既に成人していたからたいして動きはしない、服装だってほとんどモノトーンのままで、じつにいちども日灼けもしなかった。やっと上体を起こして、床にあぐらをかいて座った。半分日本人のあいつがよくやるから、すっかり移ってしまった癖だ。
「お前は変わったよな。背なんか別人だし」
「そうですね」と言ってフーゴは笑った。逆光で少し翳っている。
けれどそれではっとした。自分の言ったことの意味が後から分かるなんて。変わった。笑う顔が。相変わらずちょっと怖いくらい、危なっかしい感じがして薄い刃物のようだ、でもいまの笑いは、「それをよく知っている」笑いだ、俺が知っていた、記憶のなかのフーゴの笑顔は、「それをよく知っていると思っている」笑いだ。うまく説明できないがそんな感じがした、もちろん本人を前にしては言葉にすらできなかった。
「見た目以外は変わった、って感じませんか?」
「いや、だって、まだほとんど話してねえし」言葉にできない、だけなのだ。
「変わりますよ」フーゴはもう笑っていなかった。声はひどく淡々としていた。
「まあそうだろうな」その声の底に、白い軽い火花を一瞬散らしてくすぶるものの匂いがし、ふと緊張して、わざとらしくアホみたいな相槌をうった。
「八年も経っているんです。自分では、どこが同じ人間なのかわからないくらいです」
「同じ人間ってことはわかる」子供のように言葉尻をとらえて、繰り返した。頭が冴えているのか、全然曇っているのか、判別できないような感じだ。
「だってお前はネアポリスに着いてここに来たんだしな」
「そうですね」一瞬の間をおいて答えた。色の薄い眼が少し柔らかくなった。視線を動かさず、斜め下のアバッキオを見て、「……いや、変わったかもしれない」と言った。
「そうかよ。まあ、体力は落ちてるかもしれないけどな」
「いや、口角とか、目尻が丸くなったかもしれない。それくらいしか変わってないかもしれないけど、それってやはり大きな変化かもしれない、だって僕にとってあなたの印象って、ほとんどその尖り方だったから、」
「……ああ? 鈍ったってことかよ? まあ否定はしねえけどな、あの時みてえな体の使い方はもうしてねえし」
「……そしてその種の変化は自然発生的にも単独にも起こらないんだ、」
アバッキオの言うことなんか耳に入らないというように、でも眼は相手からぴたりと離さず、独り言のように呟いて、でも独り言にしてはずいぶんはっきりした物言いで。
「……はあ?」途方に暮れながらふとかすかな緊張が緩む。軽いデジャヴがある。
「どっちだろう。……どっちだろうな?」顎に折った指を押しつけ、軽く俯きながら。
「だから何が。……相変わらずっていうか、よけいにっていうか、せめて真正面にいる奴くらいには分かるように喋れよお前」
「いや人です。人のこと」
「人がどうしたよ」
「ちょっと、嫉妬してしまいました」意味不明も安堵をすぐ上回って、昔と変わらぬ雪花石膏のような眉間に皺を寄せた元チームメイトを、フーゴは唇の端を上げて微笑んで、見た。「あなたの八年に」
その微笑みは柔らかい、と言っていいのか、硬い、と言っていいのか、八年前よりも。いやそうじゃない、いっそう柔らかく、いっそう硬い、なんだ意味わかんねえよ、自分で思ったことに、アバッキオは軽く混乱した。
決して短くない時間の流れは自分が浴びたものはわからなくて、人のものはわかるのかもしれない。片膝に手をつくと立ち上がる。考えるより何か言いたい。
「とりあえず、時間あるか? 茶でも淹れるから。あと他のやつらの住所とか、」
「いえもう行きます。時間もあまりないし」
「時間って、まだ十分も居ないだろ」
「いいんですこれくらいで」かぶせるように性急に、しかしあくまで穏やかに、フーゴは言った。「過去というものに、なかなか耐性はつかないから」
いいんですこれくらいで。アバッキオは無意識に耳の奥で繰り返していた。そうだそうだ。昔からそんなことをすぐ言うやつだった。キレっぷりとの、そのギャップ。
だけど今はもう何だか似合いすぎている。あの時の言葉は唇から出ていたけれど、腹の底から出てやがる。呼吸するように。覚悟するように。どういうことだ。いいんですこれくらいで。抗うように言葉を継いだ。
「だってそう言ったってわざわざここまで来たんだろお前」
「来たかったんです。わざわざここに、真っ先に。だって、今日はあなたの誕生日じゃないですか」
「……、」驚いて、短く息を飲むと相手はその呼吸を同時に飲むように頷いて、笑って言った。
「僕たちそういうの、何か、なんでかみんな覚えてたじゃないですか。全員分」
おめでとうございます、とは、フーゴは続けなかった、さすがに照れくさいのだということが、白い頬にほとんど赤みものぼらないのに、数秒の無音からわかった。四つ下。二十四か、脈絡もなくそう思った。
くるりと踵を返した、後姿に、「おい」トーンを上げて声を掛けた。
「また来いよ」
言ってから、あ、言った、と思った。
言いたかった。ダサくても、この場にもこいつにも不似合いでも。
だけど実際にそうしたことがいままで何度あっただろうか。今なんて、自然に軽く口から飛び出したのだろうか。
八年。急にその深さと重さが、腹に来て、膝に来て、震え出すほどに、全身に感じた。――確かに、たしかに、ドアの閉じる、それにしては静か過ぎるノイズに反響して、そう思った。
(或る戻らない昼/棘草茉莉)