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 こんこん。
 風に紛れて、ノックの音が聞こえた。

 ―――ような気がして、目が覚めた。

 耳を澄ませば、近所迷惑も顧みず、洗濯機のごんごん回るやかましい音。それに時折、強風に打たれて窓のサッシが軋む音が混ざった。首を捻って片目で時計を見れば、日が変わるまであと30分。
(やべ…いつの間に寝ちまってたんだ…?)
 俺は冷たい床に手を突いて、ゆっくり体を起こした。ゆるく頭を振る。半端に結んでいた髪が、ぱらぱらと肩にほどけて落ちた。
(つ…頭、痛て…)
 春とはいえ、夜はまだ冷える。鈍く痛む眉間を押さえ、俺はジーンズの尻ポケットをまさぐった。つぶれかけた煙草の箱を引っ張り出して、最後の一本を取り出す。火……火はどこにやったっけ?
 チッと舌打ちして、握り潰した空箱をダストボックスめがけて放り投げた。ようやく目の端でシンクの脇にライターを捉え、立ち上がる。
(つーか、誕生日だからって急に気を利かせられても、むしろ困るっつーの)
 くわえ煙草に火をつけながら、ぺたぺたと裸足でリビングに戻って、再び床に座り込んだ。
 店長の好意とやらで店を早めに上がらせてもらったはいいが、俺は結局、暇を持て余していた。なにしろ、やることがなさすぎて、思わず洗濯を始めたくらいだ。自分の無趣味っぷりにも、いい加減うんざりしてくる。
(けど、待ってるヤツもいねえし、とか言って、ラストまできりきり働くのも癪だしよぉ…)
 途端、ちょうど二カ月前に別れた男の顔を思い出して、また舌打ち。
 相変わらず、窓の外では風が鳴っている。今日は一日穏やかで暖かかったのに。夜になって風が出てきたようだった。
(そういやあいつ……あれからなんの音沙汰もねえな)
 吐いた煙の行方を目で追いながら、頭は最近店で会った男のことを思い出していた。
 俺が働くリストランテにその男がやって来たのは、一週間ほど前の金曜日のことだった。
 歳は俺と同じか、もしくはもうちょい下か。いや、それにしては雰囲気が老成していた。もしかしたら童顔なだけで、俺より上なのかもしれない。要するに、よく掴めない男だった。
 逆にひと目で分かったのは、身につけているものがえらく上等だということ。どう見てもレディメイドじゃないスーツと仕立てのいいシャツ、趣味のいい時計に磨き込まれた靴。身形からいわゆるヤンエグなのかと思いきや、それにしてはまっとうじゃない雰囲気を全身の輪郭から僅かに醸し出していて、普段何をしている人間なのかはやっぱり掴めなかった。
(けど、何してるかなんてこの際、関係ねえなあ……とにかく)
 セックスの相性が最高だった。
 ここ数年で言えば、大ヒットと言ってもいいくらい。
 その日は最後まで残って店じまいをして、裏口から出たとたん、路肩に止まっていたベンツの後部座席のドアが開いた。
 不用心と言わば言え。こんな経験、なかなか出来るものでもない。それに、俺は自分の勘には自信のある方だった。悪くねぇ相手だ。
 思い出した途端、体の奥底に眠っていた熾火のような疼きが目を覚ました。あの日外は寒かったのに、まるで熱帯夜のようだった。炉のように燃えさかる体と体が絡み合い、久しぶりの密を一晩で何度も味わって。いつのまにか意識を失い、日が高く昇るまで、泥のように眠った。
 事が終わった後、そいつと特に次の約束をしたわけではないが、
(今日が俺の誕生日だってのは言っておいたような気もする)
 アバッキオは、ことさら細く煙を吐いた。紫煙はゆるゆるとたゆたい、ドアをめがけて流れていく。
 それで連絡がないのだから、向こうはさほどでもなかったということか。
(は、あんときは気を持たせるようなことを言いやがったのに……)
 なんだかまた気分が滅入ってきた。俺は、短くなった煙草を強く吸い込んだ。もはやおざなりにくっついていただけのゴムを外して、ほどけかけていた髪を完全にばらした。
 すると、今度こそノックの音が聞こえた。しかも、ものすごい勢いで連打している。
(あんだ?こんな時間に…)
 尋常ではない様子に、一瞬無視を決め込もうかとも思ったが、男のことを考えていたのでドアを開ける気になった。予感、というヤツかもしれない。
「ちょっとぉ!」
 開けた途端、渋面を作った見知らぬ男が罵声を浴びせてきた。
「やっぱ、いるんじゃねーか!いるんなら早く出ろよ!このうすのろが!オレァいったん店に戻りかけたんだぞ!」
「……は?お前、誰。つーかるせーな、きゃんきゃん騒ぐんじゃねーよ。今、何時だと思ってんだ」
「ああ!?何遍チャイム鳴らしたと思ってんだコノヤロー!」
「だから黙れや。うるせえっつってんだろが。チャイムなんて、ここ来たときから壊れてんだよ」
 見たところ25、6だろうか、男の制服を見る限り、近所のピザ屋の店員らしかった。名札に素早く目を走らせる。サーレー。なんだこいつ、ガム噛んでやがる。態度わりぃの。店主にちくったろうか。
 そんなことを考えながら睨み付けると、サーレーは白けきった様子で唐突に口を噤むと、平たい箱を目の前に差し出した。
「あー、めんどくせ。もういいや、はい、コレ」
「あん?俺、ピザなんて頼んでねーよ」
 ぐいぐい押しつけてくるピザの箱を、俺はサーレーの方に押し返した。
「でもあんた、レオーネ・アバッキオさんでしょ?住所は……」
と言って、サーレーは紙に書いてあった俺の住所を読み上げた。たしかに俺の部屋だ。
「この住所に届けるよう、頼まれたんだけど」
「誰から?」
「さあ……なんか誰かの使いだって言ってたけどね、そいつ。金はそいつからもらったから、あんたの名前しか聞いてねーし」
(ミスタ辺りの嫌がらせか?)
 とっさに、腐れ縁の幼なじみの顔がよぎる。
「ま、中見りゃわかると思うけどね」
「?」
 えらく特殊な注文だったんだ、とサーレーは言って、改めて箱を俺に渡す。妙に軽い。これではまるで中味が入ってないような……。
「おい」
 俺は、任務終了とばかりに帰ろうとするサーレーを引き留めた。
「おめーもここにいろ」
「なんで?」
「やべーもんだったら、おめーに責任取らせる」
「ちょ…待ってよそれ、何かあったら俺を殴るってこと?」
「そんなもんで済みゃいいけどな」
「……別に爆発物とかじゃあなかったぜ?」
 とはいうものの、興味はあったと見える。サーレーは向きなおって、床の上に置かれた箱を覗き込んだ。俺はしゃがんで、壊れ物を扱うようにそっと箱の蓋を開けた。
「……なんだこりゃ」
 思わず、気の抜けた声が出た。
 中には封筒が一枚のみ。
「手紙じゃねーの?俺が受け取ったのはこれだけだぜ」
「じゃあ封筒のまま渡しゃいいじゃねえか!」
「あ、わざわざピザの箱に入れたのは俺のアイデアね。その方がびっくりすんだろ?」
 脳天気に言い放ったサーレーの頭を軽く叩いて、俺は封筒を開けた。
 淡い薄荷色の封筒から、金で縁取られた同色のカードを取り出した。
 文字は群青のインクで二行だけ。

 28歳の誕生日おめでとう
 メルカート広場のバー『ペッシェ・ドーロ』で待ってる

 封筒を裏返すと“G”の一文字。
 あいつだ。脳裏に、後ろで緩く編んだ金髪が浮かんだ。
 何考えてんだ、あの馬鹿。俺は今、疲れてんだぜ。しかも、時計の針はあと少しで0時を回る。なのに、たった一度寝ただけでよく知りもしないヤツに、今から会いに行くとでも?
「あーあ、何ニヤニヤしてんだよ、気持ち悪りぃ。んじゃ俺、もう行くかんね」
 ちぇ、くそ面白くもねえ、と吐き捨てて、サーレーが外階段を降りていったような気がしたけれど、そんなことどうでもよかった。
(洗いっぱなしでほっとくと皺になんのによぉ)
 俺はカードを手に持ったまま、洗濯機の中で回っている洗濯物をどうするべきか、本気で思案していた。そして突然、着替えなきゃ、と思って部屋の中に身を翻した。
 外を吹き荒れる春の嵐は、当分、止みそうになかった。

(はるのあらし/蜂郎)


FIN.


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