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ため息をついた男は、一歩を前に踏み出した。女の耳元に唇を寄せて、二言三言、囁く。女は床をじっと見つめたまま動かない。ややあって、その肩がまた震え出したかと思うと、女は床に向かって叫んだ。「ばか……ばか! あんたなんて、嫌いよ!」「アンジェリカ、本当だよ。信じてくれるだろう?」「あんたなんか……!」新しい涙をこぼれさせながら女は震える声でそう言い、そして男の広げた腕に飛び込み、彼を抱きしめた。周囲からほうっという溜息と安堵の囁き、呆れたようなざわめきが起こる。アフロディーテは考える。
一体男は、女に何と言ったのだろうか?
きっと、どうしようもない陳腐でくだらない言葉でも囁いたのだろう。
アフロディーテには、なんとなくわかる気がした。女は何でもよかったのだ。どんな言葉でも、男を信じるための言い訳が欲しかったのだ。唐突なこのメロドラマは、始まりと同じように唐突な大団円にて終わった。
「アフロディーテ」
テーブルの向こうの男の声に、アフロディーテははっと振り返った。あまりじろじろ見ないように気をつけていたのに、行儀の悪い事をしてしまった。
「すまない、つい」
「気になるのかよ?」
「いや、別に……」
視線で示されて、男女にまた視線をやる。衆人環視の中、女はまだ男の胸で嗚咽している。男は余裕の微笑で女の肩を抱いて、もつれからまったブロンドに優しくキスなどしている。本当に伊達で、下らない、駄目な男だ。けれど、少し羨ましくもある。嘘でも構わないと思えたのだろう女も、嘘を重ねても女を手放さない男も。
「アフロディーテ?」
「……あ。すまない」
デスマスクのふたたびの呼びかけに、アフロディーテはあわてて振り返った。男はからになったカップをソーサーに戻した。
「おれと二人じゃ、やっぱ退屈か」
「え?」
唐突な問いに戸惑って、つい口をつぐんでしまう。
そんなこと、考えてみたこともなかった。
アフロディーテは、デスマスクと二人で過ごせるだけでうれしかったし、退屈な思いなどしたことは一度もない。けれど――
「シュラでも誘えばよかったな」
今にもため息をつきそうなデスマスクに、アフロディーテは焦った。誤解を与えてしまった気がした。デスマスクは膝においたナプキンをとると、くしゃりとまるめた。アフロディーテは急いで口を開いた。
「デス、わたしは」
「無理しないでいいぜ。人の気持ちってのは変わるものだからな」
デスマスクはナプキンをテーブルに置き、ふっと自嘲するように笑った。
その表情で、アフロディーテは気づいた。
きっと逆なのだ。
きっとデスマスクの方が、アフロディーテに飽きたのだろう。
それはそうだろうと思う。アフロディーテの取り柄といったら、この顔と、あとはせいぜい特技のガーデニングくらいだ。イタリア語もなかなか上達しないし、デスマスクが聞いてくれるからと、わがままばかり言ってしまった。呆れられるのも、当たり前だ。こうなるのがわかっていたのだ……怖かったのだ。
だから、彼を開放しなければならない。
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