Wake up
(ナルシソ)
呼ぶのは、誰だ。
鼻腔から入って全身をちくちくと刺激するような、それでいて懐かしいような、匂いが漂っていた。匂い、だと思うと、次の瞬間きめの細かい煙になって頬を、喉を取り巻く。
進んでいくのを止められない。足が勝手に動く。瞳孔は開きっぱなしで、視界がやたら広く、けれど幾つにも分割したテレビ画面のように分かれて重なり、焦点を合わせることができない。
(アナスイ)
響きも抑揚もないが、深みだけは底無しにある声。
幾重にもめぐらされた幕をくぐる。紗のような薄い、いや、繊維でできているのかどうもわからない。膜……なのかもしれない……巻かれる。息が、できない、
吸い込む自分の息が、ぞっとするほど冷たく、そして甘く、テキーラどころではなく、かっと胸に沁みる。ぐらりと足下が回転する。崩れる。
フラッシュ! の瞬間、瞼の裏か、それとも表か、映ったのは真紅、粘性を帯びた、鉄分の甘さと、激痛、
下半身がぬかるみに埋まり、ぬかるみは下半身なのかもしれず、ぬかるみはぬらぬらとして、温かく、なまの色に光り、桃色に白に光り、またどす黒く、埋まる、と思えば、噛み付かれる。息がせわしくなってくる。皮膚一枚下の血の温度が上がる。蜂蜜のようにねっとりと光り、甘く激しく揺さぶりをかける快感、氷の刃のように過酷に突き刺す痛み、そして、体内に水が湧きあがるような懐かしさ――
――いきが で き ない!
水面に浮かび上がるかのように口を開けて、いや、肺をひらいて、咳き込むように空気を吸った、と思ったら、まだ自分の唇は閉じていた。慌てて鼻から息を吸い込み、靄に縛られていた視界を瞬きで洗い落とすと、真横に大きな瞳がふたつ並んでいた。
凪ぎきった、しかし底無しの、深いブルー・グレイ。濃く長い睫毛。骨の硬そうな鼻梁。
寝起きの驚きと、慣れた感じが同時に発動して、俺は結果的に身じろぎせずにそいつの名前を呼んだ。「ウェザー・リポート」
妙な名前だ。いや、名前じゃあないのか。
「アナスイ」呼び返された、
キスするのかという距離に唇もある。色も肉も薄く、大きい。生温かい息がかかる。
「体温が異様に上がっている。汗もかいている。熱いのに冷たい、やや尋常ではない汗だ。呼吸も浅かった。筋肉が緊張している。全く見慣れていない状態だが、大丈夫か」
「……ああ、大丈夫だ。見慣れていないのは夢だ。ちょっとすげえ夢を見た」
「夢」
「見ないのか?」
そうか、記憶がなければ夢も見ないかもしれない。俺は少し、ひやりとした。開けてはいけない扉に触ってしまったような感じだ。
「……見ないが、わかっている。と思う。どんな夢だった」
「……ああ、なんだか、ドロドロでグロくて、地獄の絵みてえな……」また塀の外的な喩えをしてしまった。少なくともここは地獄ではないらしいな。「って、わからねえか」
ウェザーは返事をしなかったが、高速で瞬きをした。
わからなくもないが、それがどうしてなのかがわからないという感じだった。
「……」
話は済んだはずだが離れていかない。なにか、俺の体温とか心拍数とかそういうものに興味があるのかもしれない。ピアノ線の上で、普通ありえない距離で並んで横たわっている。
――だがありえないのはそのことじゃない。
ブルーグレイの鏡に映すように、俺は急速に眩暈を感じていた。実際、見たことのない夢だった。具体的な輪郭はもう薄れはじめている、夢なんかそんなものだ。だが、もやもやしていすぎた、グチャグチャしていすぎた、そして吐き気がするほどなまなましかった、快感も、不快感も、痛みも――
いつも。どんな血の海のなかにも、生臭い塊の奥にも、冷たい金属と同じように、縫い目があり、継ぎ目があった。それはクリアであり、クールだった。感情が一瞬沸騰して振り切れても、決して呼吸を乱すことのない、迷うことのない道だった。
「……何だったんだ、」
思うのから一泊遅れて唇から音になって出た。ウェザーの唇がまたぴくりと動いたが、何も言わない。そしてまだ離れていかない。何かあるのかもしれない。確かに、尋常じゃあない。
「エンポリオが戻って来る」
数センチ先の唇が、やっと唐突に言った。声よりも息の温度を、微弱電流のように感じた。唇と唇の間の空気や水気を痺れさせて。
「戻ってくるが、一人ではない」
また瞬きして壁の方を見た。その動きでやっと、四肢の呪縛が解けて俺は身じろぎした。脇腹の下でピアノ線が尖って澄んだ音を立てた。
+後記+
またやまなしいみなしおちなしなのにやおいでもないものかいてしまいました〜でもこれは予告なのです!2011オンリーの準備号のそのまた予告っていうほんの搦め手です!もう年末に向けてウェザアナの心臓破りの坂、登りますよ!というわけで準備運動でした。ピアノの中で寝てるとかなんてわかりやすくエロいことを……エンポリオも一緒ですけれどね……わかりやすくベートーヴェンのザクザクしたピアノソナタかけながらかきました。でもちょっといやかなり違いました。とにかく……本番に乞御期待、くださいませ(汗)