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神学生











 地底へ掘り進むような細く急な螺旋階段を降りる。彼は用心深く、周到だ。
 地下二階。
 もしも何かの間違いで地の反対側にいる太陽が突然戻ってきても。なお創世記を語る造化の光を夜へ流し込んでも。
 それでもここまでは届かない。
 胎動のように壁を伝わる振動は黒いドアを開けると一気に膨らんで流れ込む。胸を熱で煽り底から拳で打つような重いリズムと、艶めかしいシャウト、きらきらしいキーボード、人気歌手の最新曲。女の声域で歌う男声のヴォーカルに聖歌隊のソリストを務める少年の声を思い出す。一気に身体がだるくなる。眠くなるように痺れて、頭の芯だけが研ぎ澄まされて冴え返る。
 これは世界の裏返し? 違う。これも世界だ。
 これは世界だ。神の在ましたもう。両腕をぎゅっと組み合わせた。
 薄暗い中を安っぽい照明がぐらぐらと揺れて人の身体が黒く影になり極彩色になって蠢いて踊っている、その中を分けて私はバーのカウンターに向かう。目で素早く探すが彼はいない。当然だ。まだ30分もある。
 私はそれでもまっすぐ歩いて行く。ごちゃごちゃしたカウンターの中で働いている女の正面に座った。
 その女に目が留まったからだ。
 私は少し驚いた。こんな場所にいるのはひどく似つかわしくないのだ。同時にだからこそ似つかわしいような気もした。
 白のノースリーブを着て白い肩を出し、薄茶の巻毛を肩下まで垂らした彼女は洗い物の手をデニムの前掛けで拭うと私の前に立って言った。「ご注文は」
「シャルトリューズ・トニック」
「どちら?」
「緑」
 彼女は一瞬の間を置いて、唇を引いて笑った。
「らしいわね」
「ただ好きなだけだよ」
 彼女に目を留めたのは死んだ妹に似ているからだった。背格好と髪の色と口もとがよく似ていた。もちろん彼女はペルラが死んだ歳よりもずっと歳がいっているし顔だって似ているとはいえない。全体に影のように纏いつく暗さがあって、簡単に美しい、などとは言えない雰囲気を鎧のように閉ざしている。その影から浮き出して喉もとや肩の線が白く清浄なのが痛々しかった。
 彼女は何も言わずに香りのきつい薬草酒をトニックウォーターで割りレモンをグラスに刺して出した。
「君を知ってる。毎週欠かさず早朝ミサに来てる。左側の一番後ろの一番隅に座って」
「あなたを知ってる」と頷いて彼女は言った。
「こんなところにも来るのね」
「意外かな」
「考えなければね。考えたら、おかしくないわ。あなた、ここを何処だと思ってるの」
「地上だ」
「そう。地上よ。ここも」
「シャルトリューズ・トニックをもうひとつ」と私は言った。「君の好きな方で。」
「似合わないわね」と彼女は言った。
「他のお酒だったら。それに私は尼さんじゃないわよ」
「知ってる」
「ありがとう。やっぱり緑が好きよ」
「なぜここで働いてる?」
 彼女は白い肩を竦めた。
「色々条件が悪くなかったから。生きて行きたかったら働かなければいけないでしょう? それに私お酒が強いの。すごくね。それで全然強そうに見えないでしょう。だからこういうところは色々好都合なの」
 彼女は自分の分の緑色のグラスをカウンターの内側に置き、華奢な首を悲しそうに傾げてじっと私を見た。
「待ち合わせ?」
「待ち合わせ」
「相手が分かる」
「分かるだって?」と私は一口飲んで彼女の濃茶色の双の目を見つめた。
「悪魔よ」
 そう言って彼女は頬杖をついた。優しい感じのする細くて小さな手だった。
「神学生が待ち合わせする相手なんて、悪魔に決まってる」
「……そうかもしれない」
「そうよ。神さまは隣に座っているもの」
「座っているかな」
「座ってるわ。今もね」
「そのとおりだ」と私は言った。
「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、」と彼女は言った。
「世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。」
 私は後を続けた。「…すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。そこで、悪魔は離れ去った。」
「私は時々思うのよ。もしかしたらイエス・キリストが地上で生きていたうちに、一番まともに話ができた相手は悪魔なのかもしれない、ってね。あとはたぶん、ぜんぜんお話にもならなかったのよ。彼を殺す瞬間まで誰も言っていることがわからなかったのよ。だけどサタンに屈しなかった。キリストは大工の息子だったからね。……あなたみたいなお坊ちゃんは、危ないわ」
 彼女はそう言って小さなため息をついた。私は何も言わずに彼女を見つめた。耳の奥で音が響く。視界の反対側、喧騒とうねる音楽の向こう、入り口のドアが開く音。振り向かずともわかる。
 彼だ。
 目を戻すと、彼女はきつく両腕を抱いて上目がちにこちらを見ていた。否、私を通り越してその先を見ていた。暗い瞳。底なしに暗く、弱く、しかしはっきりと澄んだ瞳。
 暗闇を割く光はこのような光なのかもしれないと思った。
「祈って」と彼女は言った。「私が悪魔に食い殺されないように」
「祈ろう」と私は言った。
「君の隣には神が座している」
「あなたの隣にもよ」
「また日曜日に」
「さよなら」
 私は高い椅子を降りて彼女に背を向けた。後ろでカウンターに手をつく音が聞こえた。










+後記+
…またこういうのをやってしまった…二次ですよ。それでも二次のつもりです(涙。誰が読むというのか。
これは去年の冬、プリンスのヴェリー・ベストを聴きながら夜道を歩いていたらいきなりはじめからおわりまで出来上がったのでした。自分でも意味不明でした。なぜ神父。
しかもわたしその後これをタネにオリジナル一本書きました。…いちどそういうことをやってみたかったということで。足はつかないはずですが事後となっては相当イタいです。
シャルトリューズは世界で一番好きな酒であります。でもどうもちゃんとしたバーにしか置いていないという傾向があって、そしてちゃんとしたバーなんてめったにいかないので行くとシャルトリューズものを飲みつづけます。
というわけで、話のバックに流れてるのはプリンスのGett offなのであります。でもこれは別に音程高くなかったね。



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