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花園と秘儀








ガーデニアガーデニア、夜の底でおぼろに光り、雨の糸を香りがつたい、しっとりと潤みふくよかに白い蕾をひらく。……手首のような、くちびるのような、その花びらよ、……





 門を入って邸まで、車を降りずにしばらく進むという、ほんものの大邸宅というやつだ。ギャングとはいえいちばん動き回っていた頃は下っ端だったし、「ボス」のお蔭で急に中枢に近づいてからは半分引退しているような身分だから、このあたりにはお近づきになったこともない。
「さすが、ボスともなるといろいろ面倒なもんだな」
「まあね。でもここは、パッショーネとしては先々代からの付き合いなので、寧ろ先代になってからは顔を出さなくなっていたみたいですよ。御当主は一時期は名前を出すだけで泣く子も黙ったという、それでいて元を辿れば貴族の家柄という」
「まったくそんな感じだな。まあ俺がお目にかかるわけじゃあないが」
「でも今は相当の御高齢ですし、特に後継に繋ぐ意欲もお持ちではないようです。……僕は御招待をいただいたことに敬意を表しています」
「で、どんなヤバい宴会なんだよ」
「ヤバくないですよ。今はもうひたすら穏やかなパーティのようです。但し、」
 ジョルノを車に乗せ、出てきたときから小雨が降り続いている。夜をぼんやり霞ませて、むっとする湿気がたちこめている。その闇がいっそう濃くなった。車の窓を擦りそうなほどに、葉が重なり合って行く手を閉じている。湿った空気が突然甘くなる。
「……ん?」
 吸い込んで、うまく吐けなくて、途惑って、アバッキオは思わず後部座席に座るボス――ジョルノ・ジョバァーナを振り返った。咽喉から胸へ一気に下りてしみわたるような甘さ。甘い、としか言いようのない匂い。でも菓子や香水の表面的な甘さじゃあない。水や空気のような浸透性をもった、深くて透明な甘い匂いなのだった。
「ガーデニア」ジョルノはぽつりと言った。
慌ててハンドルに直る。今日の任務は運転手、それきりだ。
その響きは、確かに聞いたことはあるが、頭の中に絵は浮かばない。花の名前は、得意分野とはとてもいえない――と、シート越しに指差された方に目をやれば、行く手のそこここに、暗闇のなかに、ふっと固まってぼうっと光る柔らかな白。ひとつ、ふたつ、ああ、数えきれないじゃないか。
「……御当主がお好きなんだそうです。ちょっと、尋常でなく。理由は今では誰も知らないのかもしれない。……だからこれはガーデニアの季節、ガーデニアを愛でるための宴です。色を乱さないため、来賓の条件はかならず白一色の正装で来ること。そして供の護衛や運転手は黒一色の正装に限る。館の使用人も同じだそうです」
 行く手が開けた。芝生の向こうに白亜の邸が聳え、柔らかい雨に濡れながら黒服の男たちが車を迎える。車から降ろし、煌々と明かりの点るエントランスの階段へ向かう、純白のタキシードで決めたジョルノの後ろ姿を見送ると、誘導されるままに、邸の裏手にある車寄せに向かう。……そこでは運転手たちに軽食や飲み物もふるまわれるし、普通に暮らしていればまず入れない庭園を散歩するのは自由だという。――あなたと行きたいな。秘密の話だとアバッキオに耳打ちして、ジョルノは、そう言った。
 まあ、俺の運転はどこぞ仕込みで、こういう所でもまったく恥ずかしくない品行方正なんだぜ。実はな。やれやれだ。

 大きなあずまやの横に広がる車寄せには黒い車が数台停まっていたが、他の運転手の姿はなかった。レモンを浮かべたミネラル・ウォーターで喉を軽くうるおすと、歩きに出た。紗をかけるような雨が昨日から降り続いている。深い森のような庭園は暗いが、要所に瀟洒なランプのかたちをした明かりをつけているし、細い道も石を敷いている。それにしても皮膚から染み入ってくるようなガーデニアの、この匂い……息苦しいのに、深呼吸しているような。
 どれくらいさまよったかわからない。ふと行き先の木立が開け、大きなマロニエの向こうに、煌々と輝くバルコニーが浮かびあがった。フランス式に切った一面の窓の向うに、白いドレス、白いタキシード、ちらほらと揺らめいて見える。
 幹に手をついて眺めた。と、輝いていない一階の飾り窓の横の扉が開き、白い影が軽やかに駆けて来た。雨の粒を、邸の光を、金色の髪が受けてきらきらと光る。
「!……おい、」
 あっと言うまに辿りつくと、持っていたフルートグラスの中の泡立つ液体を、きらきらと、……マロニエの根もとにまいた。
「窓から見えました」
「何ッ」
「まあ、多分、僕にしか見えていないから大丈夫ですよ」
「何を言って、……大丈夫なのかよ、抜けてきて」
「ええ、ご挨拶は済みましたから。でもまあ、凄いですね、邸の中もガーデニアだけが飾ってありますし、男も女も白い服の人しかいませんし、ワインだってどこまでいってもシャンパンと白だけ」
「金持ちの考えることは分からねえな」
「でもまあ、ここの庭を見なければ損でしょう」そう言って子供のように微笑み――いや成人したのだってつい最近の「ボス」なのだが――ジョルノはアバッキオの腕を取った。

 小路はふたたび暗くなった。蛍石のように、いやもっとずっと柔らかく、白く光って花が濡れている。
 ジョルノは絡ませた腕をほどかない。
「……いま生まれてはじめてガーデニアについて考えてる」口から出るままにアバッキオは呟いた。
「僕ははじめてじゃあない」
「そうかよ」
「日本語でなんて言うか知っていますか?」
「日本にもガーデニアがあるのか」
「ありますよ。というかアジア原産ですよ。クチナシ、っていうんです」
 耳慣れているはずもない音の響きに反応のしようもなく、アバッキオが適当に軽く頷くと、ジョルノは唇をにっと引いて笑った。「口が無い、って意味です」
「……マジでそういう意味の名前なのか?」
「もしかしたら違うかもしれませんけど、音だけ聞くとそう聞こえるんです。だからそういう名前だと子供の頃はずっと思ってました」
 普段はそんなふうにしない、むしろ伸びた背丈のぶんだけ、アバッキオを圧倒するようなポーズをしたがるジョルノが、ぐっとアバッキオの肩に肩を押しつけて、頭をもたれさせてきた。今はかろうじて追い越されてはいないが……一瞬浮かんだ子供じみた焦りは、歌うような柔らかな声に遮られた。
「日本に住んでいた頃にね、母親と住んでいたんですけど、アパートの窓の下の住人が大量に植えてたんですね、もともと垣根だったのかもしれないけど……6月は日本では雨季でね、しょっちゅう雨が降っていました。……夜中、窓を開けて、外をずっと見てて、ずっとガーデニアの匂いをかいでいました。いつもね。酔っ払うかと思った。……」
 日本の話、が出るときは、少しアルコールを一緒に入れて、相槌を打ちながら聴いたほうがいい。――この数年間で、たぶんアバッキオだけが密かに学んだ経験則。しかし、グラスは手の届くところになかった。そうして甘く澄んだ香りは、強すぎた。押しつけてくる肩の力に、相槌を打つようにこちらからも軽く力をこめた。
「それでね、当主の御老人は知ってましたよ、日本語名も」
「さすがマニアだな」
「でもね。しゃべらない、という名前なのだろう?――って、そうお聞きになるから、訂正したんだ。いいえ。口が無いのです、って」

 黒が似合うなあ、とジョルノは言った。そのひとつむすびのプラチナブロンドと。絶妙。そう言って手を伸ばして髪を掴むから、振り払おうとすると、屈託のない笑顔に白一色の装いは天使のようで、「口が無い」――淡々と言ったひとことの響きの奥の凄みと重なって、アバッキオは視界が軽くぐらりと揺らぐ気がした。
 雨が強くなってきている。
 行く手に小さな小屋が見えたので、肩で促して少し急いだ。沈んだ色味の木で組んだ、庭番小屋にしては小さすぎる、あずまやにしては密閉しすぎている小屋だった。扉が開く気はしなかったが、押してみると予想はあっさり、裏切られた。
「――わあ!」
 ジョルノが声を上げたのに驚いて、顔を上げると、アバッキオは逆に声を呑んで見上げた。濃い色のステンドグラスがひっそりと見下ろしていた。明かりはついていないが、霧雨に掻き消されずにいるかすかな月明かりを集めて、ガラスに嵌められた一人の天使が聖書を捧げ持ち、こちらに向かって開いて見せている。木のベンチはたった二列。個人のための礼拝堂らしかった。
「……貴族で悪党でも、こっそり祈りたくなるときもある、ってわけだな」
「そりゃそうでしょう」
 ジョルノは祭壇の正面、ステンドグラスの真下に立ち、まっすぐに仰いで見上げている。天使が天使を見上げている――そう思った瞬間、こちらを振り向いた。
「って言っても、実際にはわかってないのかもしれない。僕には宗教的背景はゼロですから。こっちに来てから学校でちょっと習ったけど。アバッキオは、やっぱり何か感じますか? 小悪党でも?」
「小、ってなんだてめえ」
「大悪党は、僕がまだなれていないからダメですよ」
「……まあ、その程度のお前の発言でキレられないくらいには、何かよくわかんねえけど何か勝手に自動的に敬虔な感じになるというのはあるかもな」
「敬虔ってどういう感じですか?」
 そんなことをあらたまって聞かれると困った。
「ああ、どうだろう、……嘘つけないって感じか、」
 しかしすぐに相槌がなかった。
 手を握られたから、アバッキオは瞬きして相手を見た。それ自体はもう自然だった、しかし握った手を下さず、捧げるように持ち、数センチ下で濃い睫毛がぱちり、と開く。
 星のような。
 星のようだ、とムカつきながらも、初対面でさえ思った眼の光の強さ。
「父親は国籍すらわかりませんが、僕の血の半分である日本人はね、信仰がなくても何か素敵だって理由でチャペルで結婚式を挙げる民族ですからね……そこに何があるんでしょう。結婚式で何て言って誓うか、知っていますか?」
「……悪い、イタリア人だがすぐ出ねえ。あのな、そんなもんだぞ」
「ふふ、日本人ですが、最近フィレンツェのドンの跡取り息子の式に行ってきましたから覚えてるんですよ。……その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも悲しみのときも、富めるときも貧しきときも、」
「ああ、そんなだった気がする」捧げ持たれた手の甲に手首に、力強い指の力が加わっている。
 アバッキオは力を、籠めて返した。
朗々としていたジョルノの言葉がいつものわかりやすい艶と響きを失い、しかしいよいよはっきりと直接耳の底に届く。「そう。ねえ。たしか。……これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、心を尽すことを、誓うか?」
「――誓う、」とアバッキオは小さく呟いた。それは唇から滑り出ていたのだが、文脈とシチュエイションのせいにできる流れでは、あった。
「嘘はつけない気持ちなんですね? この天使の前で」としかしジョルノは尋ねてきた。双の星がやはり眩しい。目を細めて、それから凝らして見つめる。
「嘘はつかない」
 と答えた。
「僕は誓う」と星の目の持ち主は言った。「信仰とか分からないし、何の担保もありませんが」
 ないことが担保だろう、とアバッキオは思った。自分も同じだ。そのことをいつか伝えたいと思った。でも今は、艶のないジョルノの声の余韻を聴いていたかった、耳の奥で、完全に消えるまで。












+後記+
……あぁぁ、つかれた……
酔いさめて後からクロエさんと2人で絶句してしまった6月のお題「ジョルアバ結婚式」(蜂郎さんのせいにしました)、まず。ショートショートで書けるわけがないです。しかも盛り上がりつつ「アバが黒タキシードでジョルノが白」って決めちゃってましたから、それでも先に仕上がった絵の方はとんでもない内容があたりまえのことのようにステキに澄まして決まってるし!!それならテキストも乗っかっていけるか!とおもったら無理!テキストでは!だって理屈の世界だもん、そもそもその服装からしてどう作ればいいのよ、、、と考えていったらこうなりました、、、、
つまり、お題の強大な縛りと、貧しいわたしの日常のときめき……くちなし好きなんですよね。やっぱりマジメなかんじになってしまいました。


2011TOP企画その3→イラストバージョン



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