よあけ
琺瑯びきの洗面器に水を張り、顔をすすぐと、アバッキオは息をついた。
水のにおいがした。
もうひとすくい。指の間から冷たい、透き通った水がこぼれ落ちてゆくのがわかった。何だか驚いた。
睫毛の上に大きな滴がたまって――すぐ落ちて、視界が一瞬膨らんだ球のかたちに潤い、しかしそれと一緒に目の上を覆っていた鱗か膜のようなものも溶けて落ちたような気がした。
アバッキオは瞬きひとつせずに、やはり驚いていた。視線は動かないまま、手が横の卓に置かれたタオルを探って、無意識に頬を拭った。さっぱりした温かな匂いがした。すぐ下は海、岩山の上、辺境のホテルでシャワーの湯も出ないが、古ぼけた設備はどれも清潔にととのえられている。任務でなくて、いつか来てみるのも悪くはない、と思った。
明かりはつけたくないのでそのままにしている。警戒のため、というのは後から探し出してつけた理由のようだ。月明かりがさして真っ暗闇ではない。飴のような、暑さが均一でない、透き通った分厚いガラス窓もきちんと閉まらない。もう寒い季節ではないから悪くはない。鼻先を水のにおいと混ざった風が吹きぬけていく。透明で、涼しいが、何かはらんでいるような風だ。合図があれば激しくも、早くも、渦をまいても吹くだろう風だ。
春だ。
首を上げた。風がのど元もくすぐった。
アバッキオはやっぱり驚いていた。水のにおい。風のにおい。夜のにおい。水面を軽く叩く時の手触り。――思えば、まる一昼夜を一人で過ごしたこともなかった。あのときから。砂浜で、認識すらできないまま胸に致命傷を受けて、それは痛みが振り切れてぽっかり大穴が空いたイメージ――願って、念じて、ブラックアウト、そこから還って来て以来。本当にボスになってしまったあいつは、超多忙なあいつは、リハビリ中も、明けてからも、ほとんど俺の部屋を拠点に動いていた。
この任務はただの運び役。とはいえ、密使。加えて万一のスタンド攻撃を警戒しなければならないという事情があった。ミスタが緊急の要件で行けなくなり、代わりを手配しようと携帯を手に取ったあいつに、俺が行く、と告げた。体は完全に回復していたし、自信はあった。とっさに反論しかけたジョルノは唇を開く前にやめた。俺の目を見た。
――任務は無事に済んだ。スタンド使いも出てこなかった。安ホテルの清潔なリネン。なじみのない部屋。微かに野草の匂いの混ざる空気。水の感触。
生きているのだと思った。
もう一度水をすくい、なぜなのか自分でもわからない勢いで顔に浴びせかけ、ぼたぼたと打つしずくを胸に衿に感じ、また潤ってふくらんだ世界、俺が一人でいる静かな世界の、匂いをかいだ。大きく呼吸をした。
気づくともう闇ではない。青色は薄く軽く、明るさに底から押し上げられている。遠く長く引く鳥の声が聴こえる。窓の方へ寄り、錆び付いた留め金を外して、軋む音とともにガラスを引く。天空まで抜ける水色がそこにあった。生まれたばかりの色だった。
アバッキオは手を伸ばしてそれに触れようとした。冷たさが鼻先に降りた。息を吸い込んだ。背骨が軽く震えた。水色のほか、何もない目の奥にあいつの顔がぼんやりと映った。一週間ほど前だったか、お誕生日おめでとう、そう言ったときの顔だった。
+後記+
2011年のアバ誕小説です。生きてたら31歳。倉庫を見返すと過去にアバッキオお誕生日の話って幾つも書いていて、そして珍しく、どれも自分でもわりと好きなのです。なので毎年ハードルが上がってゆきます。しょせん二次なのだけれど、やっぱり二次どうしで時間的に矛盾するのは避けたくて、今回も一応どれともかぶってないはず……たぶん。いま、暗闇のなかでこれを書いています。パソコンの画面て明るいね。アバッキオ、お誕生日おめでとう、とこの春にもやっぱり思っています。