チョコレイトスランバー
俺のほうが帰りが早いことが多い。
あっちはリーダーなんだから当たり前だ。一仕事終わって俺らメンバーは解散でも、ブチャラティは上に報告義務がある。そのあと飲んでくることもある。俺は特に訊かない。行く先のわからない話をはじめるのが苦手だ。他の奴ら――三人とも年下だが先輩ということになる――は用がなくとも事務所でダラダラとムダ話をしているが、加わりたいとは思わない。但し奴らの、柔軟剤を入れずに洗いすぎたタオルのような、ばりばりと乾いた感じは悪くないと思っていた。
「番犬みてぇ」
と無邪気に言った三コ下に無言でつかみかかると普段はとりすました四コ下が加勢に入ってきて三人で床をころげまわって、二コ下はと見ると手を叩いて面白がっている、「やれッやっちまえ、」
二つに割ったオレンジのようなその笑顔。
番犬、と言われるのはたぶんその通りで、ナランチャに悪気なんかないことはわかっている。無口で、主人以外にはなつかず、じゃれつかず、主人を侮辱されれば噛みつき、どこへでもお供したがる。カタギだった頃、腹いせにチンピラから同じ言葉を投げつけられることがときどきあった。皮肉なものだ。
だけど今度の主人はただ一人だった。
実際、飼い犬みたいに――他の奴らはこのことを知らない――かなりの頻度でブチャラティの部屋に帰り、リビングのソファで眠る。いつも舌はこわばって、唇は震えて、話をする、ということをこの一、二年で忘れた俺はまともに許可さえ求めなかった。まともに許可を与えたのはあいつだ。澄み切っているのに底の見えない黒い目と、落ち着きはらった声で。
「勝手に出入りしていいぞ。お前のとこ、スゲー狭いだろ」
犬の首輪のような、手のひらに握りしめる小さな冷たい鍵。もちろん、あいつにそんなつもりはないだろうけれど。実績ゼロの新入りに与えられたアパートの部屋は確かに狭かった、簡単なキッチンとクローゼット、ベッドがあるだけ、バスタブは無い。眠るだけだから構わない。そしてあの頃の寮の部屋に似ていた。
とにかくそんなふうにブチャラティは完璧だ。チームリーダーに相応しい人格者で、前歴はあればあるほどよいこの世界で唯一嫌われる俺のそれも問わず、子供と老人とはぐれ者に優しく、そして、仕事となれば最高にヤバい。トリッキーでホットで冷酷。その片鱗が、普段でもときどき顔をのぞかせるようだった。他の三人はもう慣れっこで、出たよ、とニヤニヤ笑っている。
突然入浴中に踏み込んでこられたときはさすがに慌てた。が表情には出なかったようだ。
「驚いた顔を、しない」
問いかけるでもなく、朗読のように芝居がかってつぶやくと、ブチャラティは首をかしげた。
だって考えればここはあんたの部屋であんたの風呂で、……侵入者はむしろオレで、驚く権利なんか。というか、警官時代は毎日大人数のシャワールームだったから自分が入浴中に人がウロウロしてるなんてのは慣れっこで。……というのはもちろん口から出てこず、二、三回、大きくまばたきをした。いつかこの唇がほどけて、こんなことも屈託なく話せるようになるだろうか? あいつらみたいに。
「驚いてないよ、とも言わない」
どうしていいかわからないので適当に頷いた。するとごくわずかに恥ずかしくなってきた。軽く膝を立てた。野郎同士なのだが。
「……まあいいか。風呂の湯は熱いか?」
はぁ?と思ってもう一度まばたきをした。すると大股で近寄った彼は勢いよく片手を湯に差し入れた。左脇腹すれすれ。大きなしぶきが立つ。
「うわっ」
思わず声を上げたと同時にこっちだけ裸の心もとなさとかブチャラティのわけわからなさとか、にもかかわらずなんか異様に揺るがない信頼とかがごっちゃになって、熱と血流に溶けて首から上に集まってきた。頬が熱い。「――どうしたんだッあんた、」ああなんてつまらない質問。完璧なブチャラティに。
「いやお前のせいなんだ、」彼は薄い唇を引いてゆっくりと笑った。「ちょっといいことを思いついてな。ちょうどこのくらいで冷める温度でもないようだ」
おもむろに、さっきから背中に隠していた左手を掲げるとそこに握られているガラス瓶。明るいオレンジ色。音を立てて栓を開けるとバスタブにあけた。一気にたちのぼる香りの霧、鼻をつく甘く酸っぱい柑橘。ラベルを確認するまでもなくそれは。腰のあたりがひやりとし、そこから広がって、みるみるバスタブ中を薄い太陽の色に染める。
「おい、ちょ、何、」
「お前が一昨日ミスタの笑った顔がオレンジみたいだとか言っただろう。何だかそれが頭の中をぐるぐる回って、二日酔で聴くジムノペディみてえに離れねーからついに買ってきてみた、市場の100パーセント搾りたて。そしたらお前が風呂に入ってるから閃いたんだ。何で今まで誰も考えなかったんだろうな?」
香りの霧が立ちのぼって噎せかえりそうだった。「……飲みもの、だからだろ」
「塩もオイルもハーブも食べものだろう。安心しろ。お前だけを実験台にはしない」
目の前でくるくるとスーツと下着を脱ぎ捨て、膝の横から割り込んできた。こうなってはオレンジジュースが投入されていてよかったと思った。眉間に皺が寄る。なんだよこの風呂、という顔を勝手に作っている。防衛本能だ。この世で唯一、防衛なんて考えなくていい相手に、と思うと自分に呆れた、それから混乱した。
膝と膝がぶつかる。脇腹にくるぶしが当たる。半裸の姿はもう見慣れたものだったが――彼は部屋の中では薄着を好む――それにしてもあらためて、象牙色の肌の下はしなやかな筋肉で覆われ、無駄な贅肉は一片もない身体だった。鳩尾のあたりを洗うオレンジジュース入りの湯でさえなんだか似合っていた。なにをやっても似合うのだ。コントラストで余計白く見える、全長だけは彼の上をいく、持て余す手足が勝手にこわばるのがわかった。
「悪くないだろ」ブチャラティはいっそう唇を引き、目を細めてにっと笑った。湯気を含んだ黒髪が光る。
「……さぁな」
反射的に肩を竦めて横を向く。(――お前のせいなんだ。)彼のさっきの長口上が頭の中でリピートしている。(お前が一昨日ミスタの――)あんた二日酔になることなんか、あんのかよ。そう思った。俺なんかきっと、まだブチャラティについて知らないことだらけなんだろう。
深い青紫。透き通って底の無い目をしていた。吸い込まれそうだ、とはこういうことなのだと思った。それが平和ボケした安易な常套句でないことをはじめて知った。そして連れて行こうと思った。決めるときはいつも直感だ。使われる側も使う側も、いくつかの経験を経た結果、俺は自分の直感を最も信じている。こいつは仲間になれる。
協調性に欠けるが義理堅く、チームの仕事は出来る。日陰仕事にはやや目立つ容姿であるのが難点だが、全体を覆うように背負っている雰囲気の暗さがちょうどよい具合に、刃もののような彼の輪郭をぼやけさせている。
警官としても目立ちすぎたのだろう。何をするにも。しかし俺はアバッキオが暗いとか綺麗だとか考える距離にはいない。そういう発想は自動的に消滅してしまう相手、部下なのだ。フーゴが賢いとかナランチャが幼いとかミスタが楽天家だとかもう考えないように。それが自然に身についた俺のやり方だった。仲間は体の一部だし、そのなかでもこいつは一番無言に、一番はっきりと自分を慕ってくる部下だった。
一人の部屋に帰りたくないらしい。というよりは、俺の側にいると安心するらしい。べつに異論はなかった。最近はこの世界に入りたての頃のように、特に一人で居たいと思うこともなくなっていた。たいていは夜と 朝の長くもない時間、一緒に居ても彼の口数は少ない。
傲慢でもなく、意固地でもなく、アバッキオが案外素直に自分のコミュニケーション能力に不足を感じていることはわかった。そんなところは、つい最近に大転落のあった人間らしい無防備さとして時々目につき、それでひどく珍しく自分のことを考えたりした。
アバッキオは夢にも思わないだろうが、コミュニケーション能力なんて俺には無いに等しい。それが必要だったのはもうずっと昔のことだ。イチゼロだ。仲間か、それ以外か。同じものを見ていると信じる。同じものを感じていると信じる。フーゴとナランチャと三人で狭い一部屋に寝起きしていたこともあったが、それはとても自然だった。今もアバッキオが側にいたがることも、側にいても何を聞くでも訴えるでもないことも、それはそのように自然なことなのだ。
饒舌さと同じかそれ以上に、ふとした拍子の底無しの瞳が見せる揺れが、水面に落ちた滴のような波紋を描いて伝わってくる。冷たい頬や瞼や唇に時おりあらわれる恐れ、自嘲、無防備な憧れ。鼻を触る癖、眠っているときソファの隅に銀の水溜りをつくる髪、長くしなやかなくせにひどく不器用に動く手指。軽い吃音ではじまり、いつも短く終わる言葉のなかの妙に印象的なひとふし――
「あいつ割ったオレンジみてえな顔して笑いやがって」
オレンジオレンジ。頭の中で壊れたテープが回り続けている。気になって仕方がないから、それを最大限に健康的に解釈しようとして市場を歩いた。わけがわからない。その明るい色、爽やかな香り。頭から浴びたかった。そして浴びせかけたいと思った。これも自然だろうか?
レオーネ・アバッキオ、お前が誰かなんて、もう問う必要はないのに。
俺は緊張しているのかもしれない。
そう思いつくと背骨から爪先まで軽い電流のようなものが走った。ひどく懐かしいのに、かたちやことばを探し出してあてはめにくい感覚だった。もうずっと昔、思い出したくないほど、俺のところにもサンタクロースが来ていた頃――クリスマス・イブの夜眠りにつくときの、あの感じ。ちょっと違うかもしれないけれど、鮮明に思い出せもしないけれど、それが一番近そうだ。たぶん。
――なぜそんなことをいまさら思い出してしまうのだろう?
玄関を入った瞬間、爪先が跳ねた。絞りたての果汁を詰めた瓶を掴むと、こもった水音のする方へ走った。
緊張している? 面白い。混乱と微量の不安の味も一つに溶けあって、軽く通電する感じ。
アバッキオは信じないだろう、リーダーが緊張しているなんて。だけど、俺のほうが年季は上だ。筋金入りなんだ。そんな話をする時がいつか来るだろうか。バランスを保つ意志が強い分、堰き止めているものだって大きい。消すことのできないものも。もちろん、決壊させはしない。仲間がいるし、他には何もいらない。だけど。
――分かるか? 分からないだろうな。だって俺にもよく分からないんだ。でも、もしかしたら。
ローマまで単身出張した日、特急電車に乗る前に、なんとなく予想がはたらいて駅前の雑貨屋に入る。ガールフレンドでも居ない限り買い物することもなさそうな店だが、このくらいの不自然を、喜んでこの緊張に捧げたい。
帰り着いて鍵を開けると案の定水音がしていた。
スーツを濡らしたくなかったので今度はバスルームに入る前に全部脱いだ。左後ろ手に隠し持ってドアを開けると、アバッキオは洗った髪をタオルで巻いて肩まで湯に沈め、太腿から水面に出して踵をバスタブの縁にかけていた。爪先がびくりと動いたが、慌てて体勢を直すでもない。表情も動かない。驚いていないのではなく、驚くタイミングをうまくつかめなかったので平然としたふりをしているということが、少し前からわかるようになった。
(結構な光景)
(俺は緊張している)
急速に楽しくなってくる。今はこの結構な緊張だけでいい。生きている限り、俺はこいつと、そしてあと三人の仲間と一緒にゆくのだから。
顎を引き、こちらを正視するでもなくしないでもなく泳いでいる青いふたつの瞳に照準を合わせ、唇の両端を吊り上げて、思い切りもったいつけて問う。
「……今度は何だと思う」
アバッキオは今だとばかり、長い脚を引いて湯に沈めた。白い膝頭がふたつ、隠れきらずに浮かんでいる。「……桃ジュース」
なるほど、それも悪くない。「違うな。色違いだ」
「葡萄ジュース」
「今回はもうちょっとタチが悪い」
「ワイン。赤」
「同じ俗悪ならこういうののほうがいい」
思い切り振り上げた小袋の中身を降りそそぐと、黒い粉末はバスタブに落ちるやいなや泡を立て、みるみるダークブラウンに湯を染めてゆく。問う暇も、答える暇も省略する、誇張された甘い香り。
「わッ! ちょ、おいッこれ」慌ててざぶりと湯から出した、アバッキオの白い肩から胸へ、薄くねばつく光沢が流れる。俺ほどは甘党じゃなかったな。「ココア? さすがにねぇだろ、」
「まさか。掃除が面倒だろう。れっきとした入浴剤だ。世のお嬢さんたちはこんなものにも浸かってるらしいぞ」
「……暇だな」
「そうだな」
答えるなり横に割り込んだ。湯はすっかりココア色に染まって底も見えない。両手で水鉄砲をつくって湯を飛ばすと、アバッキオは露骨に嫌な顔をして顔をそむけた。初めての顔、と思うとまた楽しくなった。
+後記+
冷たい汗が……
2011年トップ絵企画第一弾、「バレンタインブチャアバ」でした。わーい久しぶりのブチャアバよ!と喜びいさんでラブリーな絵解きにとりかかってみたものの、ブランクが長すぎたためいろいろと大変でした。読み返すと前半とか要らないんじゃない?わたしのためだけだよね?(涙)いつも特に考えずアバを喋らせてますけどそれはジョルアバだからだったんですね! ブチャだとアバは喋らないですね……。ということを理解しました。アバはともかく完璧な男ブチャラティを書く勇気が途中でくじけそうでした。
ところであまりに久しぶりだったので、昔やった犬蜂コンビさん作成「ブチャアバ好きさんに69の質問」の回答を読み返してみたのですが、この69Q自体はホントにマニアックで傑作なのでぜひ同好の方は挑戦していただきたいですが、自分の回答が若い……青い……恥ずかしすぎる……もうこれ5、6年くらい前なんですよね……それだけアバ受やってきて全然懲りてないです。むしろ当時の頭の中を「青い」と斬っちゃうわたしには新たな大人女子的な?ブチャアバ萌えの世界がッ!開かれているッ! と思うことにしましたv
ハーシーのリップクリームとか大好きですが、チョコ入浴剤の方はやっぱりお掃除がめんどくさそうで使ったことないです。どうなんでしょう。