ハッピー・サッド
前の晩に空が晴れ渡って、星がきらめいて、暁に少し冷え込んだ。目覚めてはいたけれどずいふん長くベッドのなかにいて、人の部屋のブラインドの隙間から、細く朝日がさし入るのを見ていた。
寝床に入ってから寝付かずにいるのはよくない。目が醒めてから起きずにいるのはもっとよくない。昔――そんな昔でもねえけど――先輩が言ってた、それは本当で、俺はもうしばらく前から朝と晩、そのよくないことしかやっていない。でも本当によくない。あいつと働くようになり、それからこうやって寝るようになってからはまったくよくない。どこに芯があるのかもいまだにわからない、喧嘩では負けなくてもそんな下らない身体を、醒めたまま、人肌の温度の布団のなかに置いておいたら、火の中に毒のある花が咲くような、暗いのに、鮮やかな考えが瞼の裏に燃えて来ることがある。
一人のときだけ。
そして傍らに人の温もりが残っているようなときだけ。
想像はふと放恣になる。バカバカしいかもしれないが誰もいやしない。目の奥に暗い光が溢れて、酔っているみたいに、瞼から頬が紅潮するのが、鏡を見なくてもわかる。
体に悪そうだ。
いや、体に悪いことばかり選んでするような日常だって、近い過去に送っていた。今だって大して変わっちゃいない。でも違うのだ。この「悪そう」は違うのだ。
外側から内側から蝕む、不摂生、喧嘩、ドラッグ、だけどそんなものが侵食できる表面を、さらに薄い膜一枚剥がした下があることを、昔の俺は、知らなかった。どんなに傷痕がついて、汚れていると思っても、剥がした内側は、真新しく、剥いた桃のような色をして、ぬらぬらと光っている。そうして、そこを侵食していくものというのが、ある。
(なぜ、こんなにまで後ろ向きな形容をしてしまうんだろうな?)
朝食の準備を全然していなかったといって、さっぱり起きて出て行ったあいつの、温もりがシーツとブランケットの間のベッド半分のスペースに残っている。その布地を指でなぞってみる。女みてえだな。でも別に、恋愛映画なんかでお決まりにありそうなふうに、甘く苦い感情が溢れてきたりなんかは、しない。
胸に大穴がぽっかり空いたような気分だ。それでいて、ひどく穏やかなのだ。
朝食の買い物を、と言って。いつも思うことだが、なぜ俺は一緒に行かないのだろう? とっくに目は醒めているんだから。こうやって取り残されて、茫然として、ベッドの中で、横に残されたシーツの上の温もりを一人でなぞるのが、好きなのかもしれない。
それは、別に、甘くもない。もう言ったか。でも繰り返して言うと。
横に人の背中があること、それもひどく近くに。熱が直接伝わるほどに。そこにはいつだって、今でも、何度一緒に寝ても――といったってせいぜい数えられるくらいだ――驚きや、とまどいや、一時だけ何も考えたくなくなるような、安堵を覚える。でもそれぞれが別々の眠りに落ち、別々の夢を見ているとき、ふと目を覚ますと、それは自分と繋がりのない、触れたからといって何が伝わるはずもない、ただの他人の背中であることにも変わりない。
父親の背中でも母親のでもない。そんなに広くはないし、そんなに小さくもない。
伝わるようで伝わらないようで、何かは伝わっているようで、けれどいつもいないときにその異質さをなぞり、確かめたくなる、そういう背中だ。
何かリクエストはあるかというから桃と林檎を頼んだ。桃は好物で、でもそれだけだと色が淡すぎ、手ごたえは柔らかすぎて、頼りない感じがするからだ。そのほかの基本的な朝食の材料になるものについては、あいつのほうがずっと詳しいので、なにも言いたくない。
でも菫を買ってくるかもしれない。
去年がそうだったから。
ああ去年も桃を頼んでしまった。だからそれを思い出したら菫を買ってくるかもしれない。俺が覚えていることはあいつはほとんどすべて覚えている。目の色と同じだから、と、言った。見るとおまえの目の色を思い出して、それが店先にリボンで束ねて並んでいるから、お誂え向きの季節に生まれたものだなと、変に納得してしまった、と。
それが去年の三月二十五日で俺の誕生日。
(こんな風にして年を取っていくのだったら、もう絶対、長生きはできない気がする。
なぜかはわからないが絶対にそうだと思う。
去年から、今年へ、俺が生まれた日から生まれた日へと、あいつが繋いだ時間の瞬間、瞬間が、ガラスでできた鋭いジグソーパズルのピースみたいに、独立して輝きすぎている。美化しているのではない。美しい、というのとは、ちょっと違う。触ったら切れそうに、光りすぎている。パズルなのに、どこへも嵌めこめない。総て嵌めこんで絵が見える日など、もう、絶対に来ない気がする。)
数時間前の、まさに、ここで。例えば俺がまたひとつ年を取った瞬間の、そんな記憶ですら、どこへも置いてはおけず、嵌めこんでわかったような気になることができない。暗闇のなかで、上になり、下になり。噛みつくように、飲み干すように、また、掠るように軽くキスをして。繊細になることをわすれてつい乱暴に繋がり。軽く浮いた汗を互いの肌が吸いあって。
健康的じゃあないか。あいつは、今朝食の材料を買いに行っている。これから、この部屋で、朝日のなかで、朝食をとるのだ。ああ健康じゃあないか、嘘みたいに。それを逆説や否定形でしか、暗い比喩でしか、語れないのはなぜだろう。こういうふうな、ガラスのパズルのような日常を生きるようになってから、「――ない」、というような言い方を、ほとんどすべてについて重ねるようになったのはなぜだろう。
そうして、ひっくり返したものを、またひっくり返して。この闇の先には光が見えると思うのは、なぜだろう。だから俺は一緒に起きて行かない。放恣で体に悪い闇の中で醒めた目を凝らしていたいと思う。「そうじゃない」「あれではない」「これではない」と重ねて。そうやって、総て、ひっくり返して行ける気がしている。あいつとなら。言葉でなんか、何も留められない。
そういうふうにして、一つ、年を取った。もう一つ、あと一つ、取りたいと思う。殆ど、願う。出来ることなら。
+後記+
そのように、わたしも過去にアバ誕小説を書いたときのことを思い出しますと(笑)いったい何と現在の余裕のないことよ、と嘆息するのですが、それでもアバッキオのお誕生日は嘘でも祝いたかったので、気合いで自動筆記しました。毎度つまらなくてわかりにくくてすみません(涙)。でも考えず書いただけあって、わたしのなかの五部=ヤオイ的なるものって、こういう感覚なのかなーとあらためて思います。ところで同衾のお相手は、選択肢二つくらいしかありませんが(笑)お好きな方を入れてお読みくださいませ。そんなことがいえてしまうのもアバッキオがアバッキオだからいけないんです。ハッピー・サッド(もちろんピチカート・ファイヴからです)は実は彼なのかも。