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Under the sheets






 ふたりはほぼ同時に目を覚ました。
 珍しいなと、アバッキオは思った。ふだんは火の番をする羊飼いのように、闇の彼方の匂いを察知する賢い番犬のように、……音ひとつ立てず明け方の空気にブチャラティは目を覚ます。というのはアバッキオの想像で、つまりは、かれがブチャラティの部屋にあがりこみ、大抵は適当に酒が入って、どちらともなく寝入ってしまったときはいつも、目を覚ますのは部屋の主の後なのだった。
 男二人が雑魚寝しても蹴り合いにならない大きさのベッドである。部屋の真ん中を占領している。いつも清潔で厚手の、真っ白なシーツが包んでいる。リネンの匂いがする。だから寝てしまう。鎧も棘もあっけなく崩れて安心して寝てしまう。
 そのことについて――たとえばそれがどれくらいしばらくぶりのことなのか、そしてなぜしばらくぶりのことになってしまったのか、とか――アバッキオは考えない。今は考えない、考えるのも苦手だ、そう思ってシーツに顔を埋める。
 今朝はそれが、互いのまばたきの音が聞こえるくらいに同時に目がさめた。つまりそのくらい顔と顔が近くにあった。目を瞠った。それから(驚くべきことに!)ああ、なんだと安心して、あとちょっと、あと一瞬の幸福なまどろみを貪るべくもういちど目を閉じた。
 相談したかのように、ふたりでやはり同時に。まばたき一つのサインで。
 昨日まで三週間休みなし、一瞬たりとも気の抜けない、一人抜いたら全員の命も危ない、そういう任務についていた。全うして、――ひさしぶりだったし、疲れていたし、いい気分だったから――とびきりのリストランテでの打ち上げの後、ブチャラティの部屋につい寄って、いつものようにかれは拒まないので、気持ちよく飲み足して、気持ちよく寝た。砂漠に落ちる星影みたいに、あっけなくぱたりとベッドに倒れて。いつもはしない炭酸割りなどをつくったのも、くたびれて解き放たれて爽快だったからだ。――お蔭で二日酔のかけらもない。心地良すぎて現実味がないくらいだと、二度目に目を開けて、アバッキオは思った。
 それは細く開け放したままにしていた窓のあわいから、流れこむ風があまりにも爽やかで、柔らかかったからだ。滑るようにして頬を撫で、冷たくも熱くもなく、なめらかさの底にわずかな温かみをこめている。なにか緑の匂いがする。底なしに懐が深く、しかしどこまでも新しく軽やかな。ああ何かが変わった、何かが来たのだと、ガラスの刃物細工のような見た目を見事に裏切って、季節の移ろいなどいちいち賞玩しない性分のアバッキオでもそう感じる。
「――良い天気だな、」
 かれより繊細な神経の持ち主が隣でそう呟いた。とても満足そうに。その声のトーンで、心臓の上を撫でられるように、アバッキオは落ち着くのだ。いつも。
 そう良い天気だ。かれがそう言った。
「五月だからな、」そう返事をしてみた。
「そうだ五月だ。五月が来てたんだよな。頭でしか分かってなかった」
 なんだよそれ、と口のなかで呟いて、アバッキオはごろりと思い切り寝返りを打って仰向けになった。鼻先を頬を若い風が通っていく。ブチャラティが時々、本当にごく時々出るこういう舌ったらずな物言いが気に入っている。
 チームでは、聞かない。
 愉快だと思う。何て気持ちの良い風なんだろう。おまけに仕事は終わって、おそろしくたっぷり眠った。――ああもういい、その先は考えなくていい。そう思った。
 なぜかはわからない。
「おい、寝るな、起きろよ。せっかくまだ朝のうちに起きたんだ」ブチャラティの掌が頬に軽く当たる。わざと目を開けないでいると、もう一回、二回。抗議するように睫毛をきっと上げると、五月の風といい勝負のすがすがしい笑顔がこう言った。
「一日を無駄にするぞ。二度と来ない日を」
「……なんだよそれ」 「きょうってのは二度と来ないだろ」
「わかんね」
「わかんなくてもいい。とにかく台所を片付けて、シーツと服を洗濯機に放り込んで、ちゃんとした朝飯を作るんだ。料理はオレがやるからお前2ブロック先のカフェでパン買ってこいよ」
 言うなりはね起きて、本当にキッチンに突進していったその後姿はひどく上機嫌そうだったから、疲れたのも飲んだのも嘘みたいな清々しい寝癖頭を犬のように何度か振って、しわくちゃになったシーツから半身を起した。いつも鈴蘭のような石鹸の香りをさせているシーツだが、さすがに人肌の匂いが移っている。人肌の温みも移っている。
 ――こんな日がなにかあるごとに締めくくりにくるのだったら。
 ――それだったら、悪くないな。いつもここに帰って来るのだったら。
 頭の隅を、そんな考えが風と同じくらい素早く横切って行った。心地いい。
 キッチンで水音がしはじめる。さて、確かシーツを洗うのだと言っていたっけ。ようやく起き上がり、波紋のように皺のよった白いシーツを腕の中にかき集め、埃やらなにやらをはたこうと、通りに面したバルコニーに出るガラス戸を片手で空けた。
 その途端。
 どこまでも軽く、膨らんでひときわ強く吹きつけた五月の、緑色した、透明な風が、不意打ちでガラス戸を押し開けて吹き込み、いい加減に抱いていた大判のシーツを巻き上げた。下側から攫われて、ほんの端だけ握っていたそれは真っ白な雲のように膨らんで、はためいて、あっという間にアバッキオの視界を覆った。
「うわっ」
 声を上げた。それから声を出せなくなった。
 ただ一瞬。
 視界からブチャラティの部屋が消えた。バルコニーの下の、五月の朝の下町も消えた。街路樹の緑も空の青も消えた。嘘みたいな幸福な風景が消えた。
――嘘みたいな?
――消えた?
――消える?
 そう消える。心地よい眠りをふたりで貪ったシーツも消えた。その下に、何も見えなかった、ただ闇があった。
――そうか、
 と思った。何がその後に続くのかわからない、否、わかるけれど言葉にならない。する必要もない。もうずっと前からとっくに知っていたことだから。
 足下が! 足下が音立てて崩れていく。なぜなら足下などないから。ないところに立っているのだから。
 胸が痛い。限りなく空虚で、真空が鳴るように痛い。立っていられない。膝をついてしまう。喉を押さえる。その上に風の勢いを失ったシーツが畳み被さり、何も見えず、息が苦しい。
「――アバッキオ!」
 そう呼んだのはかれだった。近くだった。すぐに、被さった布が乱暴に取り除けられた。肩をものすごい力で抱かれた。
 かれはどうした、とは、聞かなかった。
 大丈夫だ、とも言わなかった。
 ただ幼い兄弟の肩を抱くようにずっとそうしていた。ああ、そうだ、わかるのだ。かれだっていつもわかっていることなのだとアバッキオは思った。
 視界に五月の朝が戻って来た。肩を支えあうようにして折り重なった二人の男と、天使の羽のようにその半身に纏わりついているシーツと、開け放たれた窓と、草いきれの混じる涼しい風と、水のような色を湛えた空、はるかなる高み。
 幸福な朝。
 ふたり折り重なって、自分は膝までついて、しかし立っていることの、細く細く削ぎ落とされた刃物のような幸福が、殴るようにアバッキオの胸を打った。目の奥にさっきの闇がある。自分で自分に刻印してしまった闇だ。消えない闇だ。ブチャラティの目の奥にもおそらく、かれにしかわからない色の闇が。そうだ足下はない。常にそんなものはない。あったと思っても一瞬で消えてしまう。だがこの朝はこんなに美しく、幸福で、にもかかわらずこうしてここに立っている。爽やかな風を呼吸する。さあ、今日が始まったのだと思った。にもかかわらず今日は始まった。おまけにここしばらくなかった最上の朝だ。肩を押さえた、両手にこめられた力がふっと解け、おそらく、ブチャラティも同じことを思ったのだ。同時に。
 キッチンで湯の沸く音がした。










+後記+
いつも楽しみにさせていただいております、Bee's Hexagon様+Cinzano様宅共同企画の2006年度アバッキオお誕生祭に奉納したものです。お題が12ヶ月だったので、贔屓月の五月にしました。実際今年の五月は一日が真夏日だったり早く梅雨が来ちゃったみたいに雨が降ったり、なんだか風薫る若葉の季節という感じでもないのですが。
とても忙しかったときで(と言ってばかりだ…)、ほんとにイメージ先走りの説明不足というか、下ごしらえもしないでとりあえず火通して皿に乗っけてみました! という感じになっちゃって、反省していたんですが、何人かの方に意外に「よくわかった」と言っていただけてすごく有り難かったのでした。ブチャアバスキーって鍼灸なみにツボの世界なのかなぁと思いました(笑。そう言ったらなんでもそうかもしれないけど。
タイトルは当初Between the sheetsでしたがよく考えたらそれ酒じゃんかって思って。



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