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菓子祭









――苺のトルテだったら引く。絶対引くな。

 ブローノ・ブチャラティはふと俯いて小さな笑い声を立てた。自分で聴いておかしくてまた笑った。俺が笑ってる。そりゃあ笑いもするだろう。だけど、ケーキ。ケーキのことを考えてさ。

――そう、苺のトルテなら絶対引く。眉間に皺よせてあの真っ白な鼻っ柱、少し赤く染めるかもしれない。それも悪くない。見てみたいと正直思う。でも、それは来年でいい。見た目で驚かさない(でも、ケーキはケーキだ)、赤くなくて、ふわふわもしてなくて。比較的素直にあの薄くて赤い唇のなかに運ばれて、びっくりして、男が唸るうまいケーキ、のほうがいい。

 そんなことを三月春先、久々のオフにもかかわらずやってきた、事務所の窓を開け放ち、白く味気ないカーテンを春風に嬲らせながら、考えているのは。行きがけにエスプレッソ一杯を注文したカフェで、対角線上のテーブルに一人座っていた少年にふと目が留まったのだ。東洋系の血の影響が見える、象牙色の肌と、黒い髪の綺麗な。
 瞳は深い青だ。その色を透徹と揺らさず、脇目もふらず、ただ淡々と大きなトルテを食べている。あれは脇目もふらず、というのか、全身が歩哨の目なのか、と、瞬間、ブチャラティはふと感じて、心に小さな漣が立つのを覚えた。

 真先にアジトに着いて窓を開けていたら、遅れて新入りがやって来た。ブチャラティの部屋から、である。雪みたいな膚とルビーみたいな唇と、上背のある骨っぽくて細い身体、氷の下の水のように冷たい銀の髪をもつレオーネ・アバッキオは、漸く他のメンバーたちと挨拶を交わせるようになったくらい、そして彼の中で、チームメイトたちとはあきらかに違う深みに立っているらしい、リーダーの部屋に目下居ついている。自分に与えられた住居もあるのに。
 向き合うと。――なにか違うことが起こる気がするから、地盤を揺るがすようななにかが起こるような気が僅かにするから、シャワーを浴びているのを置いて先に出てきた。自分と同じ石鹸の匂いがドアの開く音と同時にふわりと鼻先に匂う。
「なあ」
「ん?」癖なのか、眉間に細い皺を寄せながら、薄い菫色の瞳をブチャラティの上に留めた。
「ヘルマン・ヘッセの有名な小説で。主人公がチョコレートを食べても食べてもなくならないという悪夢を見るんだけど、何だったかな」
「――さあ。あんたいつ本なんか読む暇あったんだよ。いつも思うけど」
「そいつがそもそもチョコレート嫌いだったのかどうかが思い出せないんだ」
「嫌いなんじゃねえか? 悪夢なんだろ」
「――そうかな。好きだからそんな悪夢見るんじゃないか」
「そうか?」
「おそらく、問題はチョコレートではない」
「……はあ?」

 ――甘いものが、好きなんだろうな。
 黙々とトルテを食べ続ける華奢な少年を見て、ブチャラティはすとんと落ちるようにそれだけ思った。その他の感想は自分で自分に牽制を課しているかのような、変な感覚があった。うん、甘いものがよほど好きなんだろうな。
 恐ろしいほど表情の揺れない少年だった。隙もなければ悲壮感もない。
「ジョルノ!」
 弛緩した、しかし若くて元気な声がして、ふと注視を緩めたブチャラティの視界で、少年も顔を上げた。眦と唇が微笑みのかたちをつくった。素早く、屈託のない少年らしい微笑みを。
「あー、やっぱりジョルノだっ」
「うっそ、ほんとぉ」
「もう、ひとりでこんなとこいるんだから。誰にも教えてくれないで」
 学校帰りの制服の女の子たちがぐるりと彼を取り囲んでしまったので、ブチャラティのところから少年の表情は見えなくなった。
 自然に代金を置いて立ち上がりかけて、そんな少年一人の印象がまだ心に消えず残っていることを、ブチャラティは不思議に感じた。
 うんあれは美しすぎる微笑みだった。
 そのくせしかめ面して一心にトルテなんか食ってたんだ。

「お前は」
 腑に落ちない顔をしているアバッキオに、無邪気に投げつけるように訊いてみた。無性に訊きたくなったのだ。
「甘いもの好きか。まあ、特別嫌いじゃないことは知ってるが」
「……考えたこともねえけど」
「まあ野郎はそんなもんだよな。でも子供はやたら好きだよな。みんな」
「……ああ、ガキだからな?」
 会話の行き先が見えずに、困惑を露に含んだ相手の声を引きとらず、独り言のようにブチャラティは続けた。
「やたら嬉しいんだよな。あたりまえだよな、甘くて、うまくて」
 否、独り言ではない。そう声にせずに飲み込んで、ふと唇で微笑んだ。少し苦い味のする笑いだった。――甘かったから、思い出したのが。
 オレンジの砂糖漬けが乗ったリコッタチーズのトルテ。シンプルなふわふわのバター・ケーキ。卵と蜂蜜の味がした。甘いものというのは、――あの海辺の村の潮ですこし錆びた台所で、母の手が焼き上げる――無条件に嬉しかったから、楽しみで仕方なかったから。
 最後にあの味を思い出したのはいつだったか、はっきりと思い出す。もっと苦かった。眩暈がした。大好きな大好きなお菓子。
 その男は好きではなかったが取り入らねばならない相手だった。自分は十三か四かそこらだった。人間の目がそこまで見通せるならば血まみれに染まっているであろう肥った手には幾つも指輪が嵌まっていた、肉に埋まるように。そうしてたいして頭が良くもなかった、こんな世界で生き残ってきた勘の冴えだけが恐ろしくはあったけれど。向かい合ってナイフとフォークを操った。味も覚えていない凝ったコースの最後に、目の前に押して来られた燦然と輝くデザート・ワゴン。そんなもの見たことがなかった。ゼラチンで覆われて濡れて光る真赤な真っ黒なベリー、梨やナッツ、豊かに盛り上がるクリームやプディング、陶器のように端整なトルテの切り口と濃密なバニラの匂い、宝石のような色のソース、何種類あるか数え切れないくらい、夢みたいで、眩暈がした。
 引き裂かれるような眩暈だった。昂奮と、嬉しさと、しかし懐かしく記憶している味が強烈にフラッシュバックして、一瞬目が眩んだ。
 それから嬉しいのだ、という笑顔をつくり、三種類くらいを平らげた。実際、嬉しかったし、それは美味しかったのだ。
 美味しかったけれど、思い出してもいた。胸には鈍い痛み、それ以外なにも覚えなかった。

 ……今みたいに、手がうずうずするみたいな、感情は。もちろんそのときはなかった。
 痛むよりそっちが先なのだ。たった今。母の手の記憶を押しのけ、俺の手だ。俺の手が。

――苺のトルテだったら引く。絶対引くな。
そう思った。

「だいたいなんでオフにまでここに来んだよ」
「ああオフだから、オレはついてこいとは一言も指示してないが?」
「…ッ」
 愉快だから苛めるのも早々にきりあげてしまう。
「せっかくだから何かしようと思ったんだ。そのうち他の奴らも来るだろうし」
「……はあ?」
「レオーネ・アバッキオ」
 声を少し張って呼ぶとだるそうな切れ長の瞼の中で、びくりと瞳を丸くした。
「んだよ」
「人の顔とかそいつの話したこととか聞いたことを覚えてるのが苦手だろ」
「すげえ苦手」
 銀糸を春風に零すようにそっぽをむいた。
「だいたい顔見るの忘れちまうし」
 そうではなかった時期があるのを知っている。知られていることを知っているから、彼はそう言う。やっとそう言う。ブチャラティは一瞬の間を置き、うずうずと逸る手を、わざと組んだ。
「オレは逆だ。頭に入っちまう。忘れようと思っても出て行かない。特に面白いと思った対象は、仕事と関係なくても。別に役に立たなくても。」
「ああそうかよ」
「人の誕生日とか?」
「あ」
「あ、じゃねえ」
 笑いながら軽快に背を向けた。
「おいどこ行くんだよ」
「買い物。十分で戻る」


「しっかしよっく覚えてるよなー」
「癖なんだ」
 アジトの簡易キッチンだが使い方次第だ。オーヴンもある。
「オレの誕生日も覚えてるもんなー。オレが当日まで忘れてるのにさ」
 ボウルの底に残った、砕いたピスタチオとアーモンドがたっぷり混ざった、ふわふわの白いフィリングを掬って舐めながら、ミスタが半分感嘆、半分呆れたというような顔で言う。
「出身地も家族構成も身長と体重も覚えてる」
「げっ」
「持病みたいなもんだな」
「でもさすがにケーキ焼きだしたことはなかったよな。アバッキオってそんなに甘党なのか? 笑わねえやつほど何とやら、なのかな」
「いやオレが好きなんだ」
 ぶはっ、と音を立ててミスタが噴き出した。「いやブチャラティだよな、まったく」
「でもすごいよ! ホントにズコットだよ! それも上のスポンジなんか二色交互なんだよ! なんかすげえいい匂いするし。なんの匂いかな、ねえフーゴ?」
「ブランデーです。多分レシピより大分大目に使ってますね」
「ご名答。大人仕様だ」
「多趣味ですよねー、ほんとに」
「ああ趣味だ」
「怖い怖い。パティシエより綺麗にズコットを作る、泣く子も黙るパッショーネのチームリーダー! しかも無愛想な部下の誕生日のために! これはアバッキオも恐ろしくてキッチンを覗きもしないわけです」
「照れてるだけだとは思わないのか?」
「……信じがたい」
 チョコレート・ペンシルで綴るのは、「お誕生日おめでとう、アバッキオ」の文字で。横から我慢しきれなくなったナランチャが、余ったもう一本でそこらじゅうに下手くそなハート模様や花模様らしきものを描きはじめる。
「あっ、こら、ナランチャ」
「いいさ、派手にしてやれ」
「……幸せ者ですね、アバッキオは」
「いやオレだ」
「は?」
「紅茶はお前に任す、フーゴ」
「かしこまりました」
 ――幸せなのは、俺の手だ。
  古い棘のように胸の奥深く眠る痛みを溶かして、包むように。
 ――自己満足だとしても、構わない。何しろうまくないとは言わせない、自信作だから。
 覗きもせずにドアの向こうで、意味もなく苛々して待っているに違いない、気位が高くて寂しがりやの、綺麗な野良猫みたいな後姿を思い出し、ブチャラティは甘い香りを吸い込んだ。子供はみんな、やたら甘いものが好きなのだと、また思った。











+後記+
なんだかやっぱり同じようなところに落ちてしまう…。過去設定萌えはブチャアバスキーの宿命ってことで。それにしても先月からスイーツ話が続いて甘党ぶりを発揮しております。甘いものって年とともにだめになるっていうけど、ヴェジタリアンにはなれても甘いもの断ちはできないとつくづく思う既にいい大人です。タイトルは吉行淳之介の同名小説から。吉行作品がそんなに好きというわけではないのだけれど、この短編だけは妙に記憶に残っていて、高校のとき読んだっきりですが、離婚した主人公が定期的に娘と会って食事する話だったかな、お菓子の描写が異様に印象的でした。チョコ悪夢は言わずと知れた『車輪の下』ですね。ズコットはうちで極秘開催されたアバッキオお誕生会のケーキです。それを使って何か書こうという企画だったのです。「グレコ・ディ・トゥーフォ」もだいぶまわってノリノリで、花模様とかハート模様とかホントに描きました(笑)



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