スゥィート・ソウル・レヴュー
世界じゅうで、両手の指で足りる人数しか知らない直通番号を廻す。コール五回目で出た。
「こんにちは、あたしよ」
丸一日ぶりに聴く自分の声が色セロファンみたいにうすっぺらい。女の子の声を、してる。普通の女の子の声。どこにでもある。どこか遠くで響いてる。
こんな生活を、あなたはしてない。
「トリッシュ、どうしました」
あ、それは、あたしの名前だ。忘れてた。あなたが呼んで、思い出した。可笑しくて小さな笑い声をこらえた。
「ねえ、今暇ある?」
全然ないのなんてわかってるよ。
「ありますよ」
死ぬほど忙しいんでしょ。
「ちょっと出てこない?」
「いいですよ」
今朝遅く目ざめて、窓を開けたら、甘い香りが流れこんできたから。
ね、死ぬほど忙しいんでしょ。気が狂ったみたいに忙しいんでしょう。あたしがこんな、自堕落な生活してるみたいに。コインの裏と表みたいにね。チョコレートでできたコイン。いくら硬そうに見えても、すぐ溶けてしまう。
そうなんでしょ。
あたしだけが、そう思っていてあげる。実際どうかなんてどうでもいいの。
あたしたちは、歪な、甘ったるいコインの裏表だって思っていてあげる。そうじゃないだろうけど、それでもいいの。
今朝遅く目ざめて、真っ暗な部屋の、カーテンを引いて窓を開けたら、甘い香りが流れこんできたから。外が眩しかった。今日は聖ヴァレンタイン・デイだったのね。甘い匂いの風が素肌を撫でて、優しくてピリピリした。何か考えても、すぐ掌からすり抜けていってしまう。何も、捕まえられない。鋏で細かく切るような、シャボン玉を割るような、そんな日常。永遠に続く連続写真。こんなの永遠に続くわけはないことは、もちろん知ってる。それは不誠実というものだ。でも、たった今はこうやって、必死で繋ぎとめておかないと、身体も思考もばらばらになってしまいそうなのは、誠実なことだと思ってる。風が甘い。優しい。どんなことも、考えた瞬間に忘れてしまう。どんなスカートを穿いたか。何色のタイツを穿いたか。ピアスはつけたのか。忘れちゃって、もういちど見て、思い出す。何十回もやっているうちに、いやになる。とにかく、家を出る。
今朝目ざめて、風が甘くて、世界は明るくて幸せそうで、あたしはお腹が空いてた。覚えてるのは、それだけ。
待ち合わせたカフェにあなたはもう来ていて、どれくらい会っていないのかも、もう忘れてしまった。もう長いこと会わなかったような気がする。ちょっと痩せた。思った通りに、ちょっと痩せた。口に出してそう言ったら、「そうかな」と言った。
「あたしはちょっと太った」
「そんなことありませんよ」
「家からぜんぜん出ないんだもの」
痩せて、唇がちょっと薄くなった。ね、そんなこと誰も言わないんでしょ? ミスタだって言わないでしょ?
突然甘いものが食べたくなったの。ものすごく。あなたと。
そう言ったら、ふと笑って、小さい子供みたいに頷いた。
細長い噴水みたいなかたちのグラスに詰まった、真っ黒なスポンジと、ブラウニーと、茶色と薄ピンクのアイスクリーム、少し溶けて、まだ凍ってる真赤なラズベリーが宝石みたいに埋まって、きらきら光るどろりと甘い赤いソースが天辺から流れて。チョコレートパフェ。あなたの前には、遊園地みたいに賑やかな、ホイップクリームが雪山みたいな、チョコレート・プリン・アラモード。そう、彼はプリン好きだった。あたしがベリーとチョコレートの組み合わせが好きなのと、同じくらいに。
まだ肌寒いけれど上着着たままオープンテラスに座って。向かい合って一生懸命食べて、甘くて、ただ甘酸っぱくて、幸せだ。
「甘いもの食べるの久しぶり」
「うん」とスプーンを動かしながらあなたは言った。
「前に食べたの、いつ?」
「うん」、またひとさじ飲みこんで、あなたはごく短い間考えた。
「……そんなに前でもない」
「うん。そんなに前でもない」とあたしは繰り返した。
そんなに前でもないのに、あたしたちの運命は、こんなにも変わってしまった。
それが運命だと思うから、あたしたちはこんなに懸命に、息を切らして、じたばたして、泳ぐことで、誠実であろうとしてる。失った大きすぎるものに対して、支えきれないから、ただ誠実でだけはあろうとしてる。
ホイップの雪山を崩して、キウイの緑をキラキラさせて、時間の流れから切り離された風の甘い、光の明るい、ヴァレンタイン・デイの昼下がりに、プリン・アラモードを食べている。あなたが年より大人びてて、漫画のヒーローみたいに強すぎるのに、年老いた魔法使いみたいに頭が良すぎるのに、皆、驚いてた。行ってしまった大切なあのひとたちも。でもあたしには、ふっと空気が匂うように、わかる気がする。かれはそれでもあたしと同じ年の15歳の子どもなんだ。いっしょにとり残されたあたしだから、わかる気がする。とり残されたと、言い続けてあげるたったひとりのあたしだから、わかる気がする。いっぱい失って、悲しくて、寂しくて、あたしが立ち止まり続ける限り、必死で水を掻いてくおんなじ子どもなんだと。
口の中いっぱいのチョコレートが甘い。ラズベリー・ソースが酸っぱい。その味に自分まで溶けて、砂になって、甘い風に飛ばされて、消えてしまいそう。でもほんとうにそんなことはないから、目の前の彼を見つめる。あたしには、わかる。
誰がなんといおうと彼はあたしとおんなじ子どもで。そして彼のほうが強いぶん、失ったものも、大きい。あたしが想像つかないくらい大きい。
ねえ、あたしはもうちょっと立ち止まってみようと思う。そんなあなたと、あたしのために。もう決してクロスしないであろうあたしたちのそれぞれの道のために。
「ジョルノ」
「はい?」
「また時々甘いもの、食べようね」
「そうですね。ここのパフェは美味しい」
はんぶんずつ空になっている大きなグラスと、チョコレートとホイップクリームのついた唇をおたがい眺めて、あたしたちは同時に、軽く頷いた。
+後記+
……ブチャラティもアバッキオも影すら出てこない5部ものを書く日がこようとは……嗚呼激動の20代にちょっとくたびれて、2006年度ヴァレンタイン・デイ小説はこんなにも覇気がないです。タイトルはもちろんピチカート・ファイヴの超有名な曲から、ピチカートの曲は底抜けに明るくてハッピーで悲しいですね。もはや誰も信じてくれなさそうだけど、わたしラブラブのベタベタが本当は大好きなんですよ。それがやれない時期なりに、心のどこかで書いてみたかったノーマルのツーショットをやってみましたが、これ以上長かったら誰も読まないでしょうね(笑