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魚獲る男








(…あつい……)
 瞼の裏では蜂蜜を流したような黄金色の模様が、緩慢に浮かんでは消えしているが、頬の皮膚がちりちりと焦げるような。それでいて乾いてはいない。額の生え際、首の後ろ、じっとりと重く、湿って、むっとする何かの匂いが立ちのぼり。
 体のどこから力を入れていいのか判らない。全身が均等に疲労している。重い。だるい。ねっとりした痛みもある。切ったり破れたりしているわけではなさそうだけれど。
(…今は何月だ?…)なんでそんなことも思い出せない。そうだ九月だ。それももう終わりに近い。ネアポリスの港を出港したとき……それはきょうのことだ、……地中海の水の深みも静かな影に沈んだ町並みももう秋の色だった、でも今年の夏は暑くて、気温も陽射しも九月の終わりでまだこんなに……
 それはきょうのことだ。出航した、命令で。
 誰と? ひとりだったか? そんなはずはない。新入りだから。無論あの直属のリーダーと。そうだ出航した。それでなぜこんなふうになっている?
 ぱちりと目を開けると。

 抜けるような空と直視できない光源!
 大きな岩の陰に寝転んでいたから直接日に焼かれてはいないが、身体の表面はぱりぱりに乾き、裏側はじっとりと重く。きつい潮のかおり。
 ちょっと待てよ。

「…っと待てよ!」
 上半身をがばと起して。海、海、海、へばりついているのは僅かな岩場。
「おいッなんだよこれは!」
 打ったらしくこめかみの後ろがずきりと痛く、ちょっと待て、思い出せ、思い出せ、
 船はどうした? 他の乗客は? そうだ、ざ、いやしかし。
「――なんだよッここは――!!」

 思わず叫ぶと視界に人が現れた。
 それは確かに俺と一緒に(というか、実際のところ俺がおまけだ、)命令を受けて甲板の横に立っていたリーダーで。名前はブローノ・ブチャラティ。艶やかな黒髪と髪型と必要以上にしなやかに見える身体つきの所為で一見、優男にも見えかねないこの男だが。
 怒らせたら最も恐ろしい奴とはこいつのことで。深い静かな海の凪と、音もなく瞬間で最高温に達する炎が二つの目の底に同居している。それが目下の同い年の兄貴分。けれど皆心の底から慕っている。俺はどうだろう。まだ会って一月にしかならない。けれどついて来た。そう決めた。
 今の目は深い。海の紺青だ。この周りいちめんをとりかこんだ青よりもっと深く。――
 喉からとっさに声が出ない。代わりに大きな息ひとつ出た。安堵? こんなわけのわからない状況で、それでもはやりこいつがいたことに? そうだこいつは一月俺の傍らを離れない。何故? と問いかけてみたこともない。下っ端で新入りだから手がかかるってことなんだろうな――ストップ。心臓が痛い。
 奥に深く鋭く突き刺さる。それは今まだ痛い。ダメだ。単語レベルでもうこんなに痛い。

「事故った」
 とブチャラティは腰を屈めて俺の目を覗き込むと、一言まずそう言った。
「やっぱり頭打ったか? どこまで覚えてる」
「事故、っておい、船がか、それでなんでこんな、」
 事象を繋げる能力がぷつりと切れてしまったみたいだ。たぶん覆いようもない状況、岩場の小島の上で海水にまみれて、けれどなお混乱が止まない。
「攻撃かと思ったんだが本当にただの事故だったみたいだな。一瞬だったから俺もぎりぎりの措置しかとれなかった。お前は転覆したとき頭打ったみたいでブラックアウトしちまってた。手の届いた船のパーツをはしからバラして繋いで、……そうして流れ着いたって訳だ」
 相手を安堵させる術を心得ている、抑揚をおさえたブチャラティのゆっくりした声と、ぐるり見渡す限り潅木と岩と海しかない状況を塩水に濡れた肌に沁み込ませるように、頷きながら呼吸してやっと訊いた。
「……で、ここは、何処だ」
「さあ知らない。何にせよそうネアポリスから離れてもいないだろう、ろくに走ってなかったからな。ここらあたりはこういう島っていうか飛び岩というかがばらばらと多いんだよ。」
「…ッてどうすんだよッそれじゃ」
「心配するな。俺たちがあの時刻あの船に乗って出航したことはフーゴ達も上もよく知ってる。事故ったことだってどう考えてももう伝わってるはずだ。組織にはオレも知らないスタンド使いがごまんと揃ってる。まあ何とかしてくれるだろうさ。前例から考えても、おそらく明日にはここにいることは把握されて救援がくるはずだ」
 ブラックアウトから回復直後だからということも勘案してか、噛んでふくめるような説明に小さく相槌を打ちながら、一方で俺はなんだか唖然として、……半ばわかっていたことではあるように思い、半ば呆れ返りながら、俺と同じように潮の匂いがぷんぷんするこの男を見ていた。
 なんでそんなに落ち着き払ってる? まるで一年前からここで暮らしてでもいるみたいに?
「今お前が寝てる間に一周してきた。一時間とかからねえ。もちろん岩と木以外には何もない」
 上半身にはいつものスーツを着ていない。何度か目にして知っている、着衣姿から想像されるのよりずっと逞しい肩や胸は、南イタリア人らしく少し日に焼けていた。
「…あんた、何で上着てねえんだよ」
「濡れたからだ」
「あ、…そうか」
 シャツの脇あたりが潮に濡れてべとべとする。ブチャラティの肩越しの太陽が眩しい。
 す、と奴は屈みこんで同じ高さから俺の目をじっと見た。やおら差し出された拳がきゅ、と音を立てて頬を滑った。
「日灼けするのか?」
「はっ、…何が」
 反射的に肩がびくんと震えた。隠しようもなかった。カッコ悪くて、頬が上気するのがわかったが、ブチャラティはそんなことすいと通過して。
「お前日灼けとかするのか?」
「はあ?…いや、あんまり黒くなったことはねえけど…普通に熱いし、痛えとかは思うし」
「ふうん。焼けそうもないからさ。熱いとも思わないみてえに見える」
 頬にあてた軽い拳を首から肩へ、湿った髪の中から外へ、す、と払うと、
「まあそれじゃ日陰で乾かしてろよ。気持ち悪いだろ」
 と言って立ち上がった。ふふん、と鼻で笑われた気がしてまた頬が熱くなったのは、気の所為か。それにしてもこいつこの落ち着きはなんだ? 慣れたと思っていたが、まだ判然としねえ。本当に同い年かよ? ちくしょ、苛々する。
「…おい、あんたは、どうすんだよ」
「じき日が暮れるし」
 そう言ったこいつは俺の目の前でやおらスーツのパンツも一息で脱いで、下着一枚になった。
「はあ?」
 思わず上げた声に眉片方少し動かして。「何だ?」
「何だって、なんだよあんた」
「腹へってないか?」
 呼吸一つ乱さずにそう聞いた。
「…腹、」そんなもののことを今まで忘れていた。胸やら皮膚やらは痛んだけれど。と思った瞬間にたしかにそこも寂しく痛む。
「昼飯ろくに食ってなかっただろ」ボクサーパンツ一丁の男は脱いだもののポケットを裏返しながら舌打ちした。「おい」そう言ってまた俺を見た。
「お前ナイフあるか。俺のは流したらしい」
 言われて反射的にポケットを繰るとそれはまだそこにあり。掴んだ小型のナイフを畳んだままで差し出すと、受け取るやいなやピン、と音立てて刃を立てた。
 まわりはアクアマリンの海。足の下には黒い大岩。肩上できれいに揃えた黒髪の男は、眩しい太陽を背に屹立し。下着一枚。表情は凪いだ海のように平静。手にナイフ。刃が反射できらりと光る。
「…な、何するつもりだ、あんた」
「まあ待ってな。このへんは遠浅で好い。うようよいる」
 言うなり両腕揃えて飛び込んだ。

「……魚かよ……」うようよいる、って。そうだろうな、人間ときたら俺たち二人だけだ。
 飯がどうのとかいってたし。
 呆れて岩の上に両脚投げ出し、じとじと濡れるのを乾かしながら、あいつの脱いでったスーツの残骸と海を交互に眺めて(時々ばしゃばしゃ、と飛沫が上がる)、水平線にはようよう紅が染み出しはじめている。
 なんだあいつ。無茶苦茶だ。知ってたけどさらに無茶苦茶だ。こないだまで自分以上に無茶苦茶な男に会うとは思ってなかった俺が言うんだから確かだ。
 ……そういえば。漁師の息子だったとか、最初に会った時に聞いた気がする。あんまり似合わねえからよく覚えてる。水を得た魚みたいに嬉々として飛び込んでったな、魚を獲りに。もしかしたらちょっとはそういう仕事をしてたのかもな。
 いや、それはないだろう。静かにうねる水面を茫然と眺めながら頭の中で思考だけが粗く織られていく。確か教会で堅信礼も受ける前にこの世界に入ったとか、学校もろくに行ってないとか。見えねえけど。何にも考えないで高校出て何にも疑わないで就職した俺なんかとは元から違うんだ。あんなふうに普通に話すのに。俺の頬をこすって日灼けするのかとか訊くのに。それであんな恐ろしく深い目を持っているのに。けれど分かるのは。
 仕事をしたことはないにせよ、あいつは魚を獲るという仕事に無類の尊敬を払っているんだろう。これから其処へ戻ることはないにせよそう信じているんだろう。あいつに仕事する背中を見せていた親父さんはきっと、自分の職業に強い強い信念と誇りを、持って、……
 痛い。心臓の奥で棘が刺さる。鋭い痛み。
 駄目だ。まだ駄目だ。痛みが映像を編み出さないうちに、頭を大きく振ってきつく抱えた。

「日本人みてえに生で食うのか?」
「ふん。最近ネアポリスにも一軒出来たな。…なんにせよオレの流儀じゃあない」
 よくもまあこんなちっこいナイフで、見事に大漁。俺には種類の判別もつかない大小の、ぴちぴち跳ねる魚を岩の上に並べて。ライターはしけちまってるし、どうするのかと思っていたら盲点、スタンドがあっというまに木屑から高速で煙を紡ぎ出した。
 あたりは空も海も深い闇に溶けて海鳴りばかりが耳の底をくすぐる。魚を焼く炎が闇を透かして赤く、向こう側にいる男のしなやかで精悍な頬を照らした。目が深い。この目を見ているだけで、なぜここまで心が静まっていくのだろう。刺さり続ける鋭い痛みも、鎮められるような気がするのは錯覚だろうか。否この痛みは消えはしない。永遠に消えはしない、たとえ死んでも。けれど。これだけ突拍子もないやつなのに。
「…服、乾いてねえのか」
「ああたぶん乾いた」
「着ねえのかよ」
「寒くないから」
 そう言うと、相変わらず下着一枚のブチャラティは火をまわりこんで俺の横に来ると、細枝に刺した火の中の一尾を返してみせて、「…よし大丈夫だ。食え」と指した。
 示されて覗き込んだ鼻先でぱちりと爆ぜた。とっさにびくっとして腕を引き肩をすくめると、
「……っはは、」と奴は白い歯を見せて屈託なく笑った。
「何だよ、」
 熱そうな枝をおっかなびっくり掴もうとしてそろそろと指を伸ばすと、その先からすいと攫って鼻先に差し出された。
「……グラッツィエ」
「はっ」またおかしそうに笑って、背を丸めてかじりつこうとした俺の顎下にいきなり腕を伸ばすと、髪を分けて首の後ろをがしがしと撫でた。
「なんだよッ」
「……猫、」そう言って目を閉じて笑う。また髪も一緒にかきまわされた。
「お前、……なんか猫に魚やってるみたいでさ」
「なにッ」
「白猫」
 頭に来て、きっとまた頬に血が上ったが、夕闇と炎しかない空間では見えないだろう。ブチャラティがあまり気持ちよさそうで、心からおかしそうなので、……そうして普段あまり見ないようなほどけた笑顔だったから。漁師の笑顔だったから。俺は不機嫌そうな顔をやっとつくってそれ以上のことはできなかった。その顔を覗き込むとまた笑い、そうして肩をぶつけた。ふわりと潮と太陽の匂いが香った。人肌の温かみが頬の先に残った。
 避けようもなかった。じわりと懐かしさが沁みた。
 こんなふうに。
 こんなふうに近く、逞しい人肌と太陽の匂いとを親しく感じるのはどのくらいぶりだろうかと思っていた。
 胸の底で何かが引き裂けて溢れた。違う。違うんだ。
 違うけれど。無理やり魚を一口かじると、(それは驚くほどうまかった、)無心にすぐ傍の目を見た。暖かく、どこまでも深かった。











+後記+
 ただどうしてもばしゃばしゃと魚を獲るブチャラティが書きたかっただけの話です。警官萌えと同じく漁師萌え(ああついに言語化してしまった)も果してどれだけの一般性があるのか謎ですが、とにかく自分はとても分かりやすい人間だという気がしてきて已みません。一応お誕生日記念小説なのですがどこがお誕生日なのか……しかし警官をはるかに凌駕して根も葉もない漁師話なんて誕生日恩赦がなければできなかった、というふうにこじつけてみます。全国のブチャラティファンのみなさんすみません。
 ネタとしてはブチャアバ69Qをやっているときに浮かんだ漂流記ものの習作ですが、その点はまだ未消化というかんじがします。(まだやる気かよ!



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