鍵(或いは、春は時速130キロメートルで)
映画が観たいのにこの部屋にはテレビがない。
(例えばアッシジの丘を駆けて来るジュディ・バウカーのサント・クララなんかを)
ビル・エヴァンスが聴きたいのにこの部屋にはジャズの一枚もない。
(だって同じのを買う必要がねえから)
ドラセナのすべすべした長い緑の葉を撫でたいのにこの部屋には鉢の一つもない。
(いつも目ざめると、なんとなくのばした手の先にあったから。……だいたい毎日水をやれねえし……)
三日前、のばした手の先にドラセナの葉はあったが、俺はその部屋を出てきた。ブチャラティを出張の仕事に送り出した後で。
背中の後ろでオートロックがかちり、と言った。
(ドアはオートロックだから勝手に出て行っていい)
あいつが最初の日にそう言ったことを思い出した。振り払うように肩にかかった髪を手で撥ねた。ノースリーヴの肩に青い風が冷たい、滲みつくように。
主が不在の部屋で三日間待つのも悪くはないと思った。その気になれば料理も洗濯も掃除も一応出来る。このさんざんしわくちゃになった微かに湿ったシーツの皺をのばして、あまつさえ洗ってアイロンと糊をかけることも出来る。
あいつが帰ってくる日付どころか時刻まで聞いている。その時刻に丁度茹で上がるように、パスタ鍋を沸かして真っ赤な辛いソースを煮詰めて待っていたっていい。気味が悪くてたまには悪くない。
にもかかわらず俺は部屋を出て歩いて帰った。夜まだ早い時間だった。紺青の薄い膜に針であけた穴のように、小さな星が幾つかひどく鋭く光っていた。
あいつが帰ってくる日付どころか時刻まで聞いている。それをそのように待っているのはまるで安心しろとでも言われているみたいだ。
安心するのは嫌だった。
一週間ぶりの自分の部屋の鍵を開けると籠もった生気のない室内の匂いが鼻先を冷やした。真直ぐ歩いて行ってベッドに転がった。シーツを替える気にもならない。
(替えたって冷たい)
でかいベッドに寝たことがなかったからこの部屋を与えられてすぐ、出来るだけ邪魔にならなそうなのを適当に買ったのだ。今では――慣れている寝床の半分の大きさもない。そう感じる。
そうして熱を出した。
次の日目ざめてしたこと。……ゆらりと起き上がり、背骨の強度を確かめるように撓らせ、弱々しい電流で生きていた冷蔵庫を開けてレモネードの瓶を取り出してサイドテーブルに並べ。再び横になろうとして止めて大股の一歩を踏み出し、……歩いて行ってドアに内側から鍵をかけた。いつも部屋に居るときは鍵をかけないが、入ってくる奴が物理的に可能な範囲に居ないのに。ならば鍵穴を通る風さえ鬱陶しい。
高い熱が出ているわけではなかった。珍しく熱を測りたいがこの部屋には体温計がない。
(……そんなもの、要らねえし、……)
ただ目の奥が噛み付かれたように乾いて痛むのと、嫌な汗を全身が湿るようにかいている。することがあれば――正確にはしろという心地よいほど有無を言わさぬ身体を慣らした命令があれば――一瞬でそんなものは忘れるが何たって今は滅多に寝ない狭いベッドに横になっている。
そうして鍵をかけた。
大きな仕事のないときでよかったと思う。チームに迷惑はかけられない。倒れこみながら瓶の蓋を齧って開け、香りのきつい人工の柑橘水を流し込む。冷えるのは一瞬だけだ。身体が汗をかいて僅かに粘つく。腕と脇腹をつけるといつもより滑りがよく、皮膚の上が僅かに熱い。閉じた瞼の裏が薄い紫で、――チームに迷惑はかけられない? そこで思考を止めるのは何故だ?
嫌な熱を出しているからだと思う。安心するのは嫌だった。
……何処かでブレーキのような、音がするような気がする。
冷たいような熱いような、捩る身体の、底からリズムのある音が響く。足音のような。否それは足音で外階段を駆け上がり。このドアの前で停まり。一瞬だれた筋肉を凝固する水のように引き締まらせた俺の耳に落ちた金属音。
それは鍵束の音で。――俺は鍵のスペアをひとつだけつくり、人にやった。世界で鍵なんかひとつだって必要としない相手に。そんなせせこましい、まどろっこしい、涙が出るようなまわりくどい、――けれど手を二つしか持っていない人間には精一杯の、閉じられた場所を開けるためのツールを。それはその音で。
焦っているらしく気は逸るらしく高く、鋭く、金属同士が擦れる音は細かく速く刻み、瞬いて火花になって俺の肌に飛び火するようだった。ちりちりと焦れるような痛み。鍵をやった人間なんて一人しかいない。何故やったかといえば必要ないからだったかもしれない。そんなせせこましい、まどろっこしい、涙が出るようなまわりくどいやり方をなぜ執るのだろう?
ついに探し当てられたただひとつのそれが鍵穴に差し入れられ、がちり、という音が扉の板を伝い床を使いベッドの冷たいスプリングを伝ううちに百倍に増幅されて、俺の心臓と薄い胸の肉を?んだ。?んで左にぐるりと回る、人間の確かな小さな力を受けた金属音が、数メートル離れた身体の天辺から下まで垂直に突き抜けた。畜生、わけがわかんねえ、そう思って手を翳しそのまま額を?む。目を閉じる。指の間から薄目を開ける。開いた扉から一杯の白い陽光が。朝一番の温度のないその光が。
まだ六時にもなっていないはずだ。
光を浴びて黒い髪が艶々と恐ろしいほど光り。白い麻のスーツの網目まで触れば切れるような清澄な朝に貫かれて立っているブチャラティの鏡のような眼、笑みのかたちに鋭く引かれた唇とその下に押し当てられたのは、色の濃い小さな花束だった。セロファンもレースも銀紙もない、ただ細いリボンで結んだだけの。深夜の繁華街で親のない小さな女の子が売り歩いているような。
「ここに帰ってたとは知らなかったから自分の部屋に帰っちまった」紫の花の群れの向こうで唇の動きが見えない。
「……予定より、」と俺は指の間から掠れた声で言った。「8時間早いだろ」
「そうだ」僅かに伏せた瞼を陽光が焼き。それは微笑みのかたちなのだった、ひどく危険な。「けど夜通し飛ばして帰って来た。ちょっと買い物をしてしまったからな」
「…何、」と問うた言葉の先に視線が走り、ようやく花束に焦点が合う、そこでブチャラティは一層鼻先を埋めるように押し当て、数秒あって扱くように顔を引いた。頬までの黒い髪が鮮やかな糸に分かれて軌道を残し、数メートル離れた俺の鼻先まで、青臭く湿った甘い香りが飛沫になって落ちる。
そのまま何も言わずにブチャラティは大股で歩いて来て俺のベッドに乗った。正確に言えば既に俺が寝ていて一杯の狭いベッドで、その俺の腰の横に両膝ついて思い切り馬乗りになり。上から覗き込む顔の横から黒い髪の先が俺の頬に触れ。眼が鏡のように鋭く光り。……あくまでなにもいわず。「…おい、な、」
単語になるのを待たずに一気に唇を押しつけた。
「…っく、」
猶予なし、手加減なし、いきなりなんだいつもこんなミもフタもないキスをしないだろ、しかし力かせに挿し込まれた熱い舌の先から、くしゃりと柔らかく、しかし芯のある固さの小さな塊が俺の舌を擦り。一瞬遅れて、青臭い緑色の味が口腔に滲んだ。と、唇が漸く解放される。
唇の端から僅かに光る細い糸を、ブチャラティは花束でおおざっぱに拭った。それは菫だった。丈の短い、青く甘い匂いのきつい。濃い紫の硬い花弁、――舌の中の塊と、感覚の底で繋がった。言葉が出ない。ゆらりと、俺に被さった人間が頷く。
「そうだ。春だ。これを買っちまったから、時速130キロでブッ飛ばして来た」
額を合わせて。「――飲み込めよ。春が来る」
返事もせずに。目を閉じて、息を止めて、その生きた薫り高い塊を俺が飲み下すのと、合わせた額がずれてブチャラティが俺の左頬下、肩の上、寝汗で軽く湿って乱れた髪に思い切り顔をうずめるのと同時だった。「やめとけよ」と喉のくすぐったい異物感に再び目を閉じて、長い息をついて、掠れ声で言う。
ふ、とブチャラティが首筋の横で笑う。その瞬間の温かみがかかる。「らしくねえこと言うなよ」
「風邪ひいてるんだよ、」と言いかけてびくり、と勝手に肩が震えた。肩から下へ震えは飛び火し。
らしくねえこと。なるほどな、ああ畜生。
「たいした風邪じゃないな」言葉と一緒に、生暖かい舌が動いている。「知恵熱みたいなものだ。悪化もしない」
「それでも、うつる、…だろ」
「皮膚の上で燃やしてやる」舌が動きを止めて一瞬、またふと笑った。
「――は、」緩急に思わず俺が息を止めた、その瞬間、ブチャティのポケットで携帯が鳴る。
「ブチャラティ? 僕ですが」
「フーゴ、何故オレが帰って来てることを知ってる? 一寸突発的に予定を早めたんだが」
「――さっき朝まで出てて帰る途中にね、運河の横で、偶然猛スピードのあなたの車とすれ違ったんですよ。一応、あなたが戻って来次第、即刻行動開始ってことになってたでしょう? だから決定通りに指示仰いで電話してるわけです」
「ああ、わかった。その通りだ。――ところで何処ですれ違ったって?」
「う・ん・が、のあたりですよ。――あのね、無論お察しの通り、察してますから。一時間あげましょう。それで好いですか?」
「――ふん、まあ充分」
「ミスタとナランチャ駆り出して出来るだけの準備はしておきます。じゃ、事務所で一時間後に。」
「一時間だと」
「何が?」
「いや一時間後に出るぞ」
放り出した携帯と、鏡のように潤んで光る眼。「風邪なんか燃やしてやるから」と、また言った。安心するのは嫌だ、と俺はもう一度祈るように繰り返す。目を閉じる。――底に手のつく安心ではなく。どこまでも深く遠く底のない、けれど溢れるほど注ぎつづける空の器、あんたの傍らのこれを、落ち着きとでも言えるだろうか。随分とそれは月並な表現で、しかしまあそれは俺の精一杯せせこましい、まどろっこしい、涙が出るようなまわりくどい鍵だ。おそらくそんな話をする日は来ないだろうけれど――
とにかくそんなふうにして、独りの熱と独りではない熱の燃える間に、喉の底へ落ちる春が来た。
+後記+
Bee's Hexagonさん(蜂郎様)・cinzanoさん(乾千代様)共催の2005年度アバッキオお誕生日企画内「アバッキオで10のお題」に、「鍵」で参加させていただきました奉納品であります。お祭りに参加する時にしみじみ感じるのは文字を奉納するのって何だか風雅を知らないというか無骨だというかということで…おつかいものにケーキの反対(華やかでなくてなくらならくてかさばるもの)を持って行くようなものだなぁと。でも憧れのサイト様でしたのでどこぞの舞台から飛び降りてよかったです。ありがとうございます。
ところで当サイトのテキストでは(……実は同人誌も含めてかも)記念すべき初の「女性向け指定」作品となりました。そんなもの人さまにお送りするってどうよ。どうなのよと赤面しつつ送ってから気がついたという始末でした。かいていたときはあんまりそういう意識がなかったのです。
わかる人にはまるわかりですが副題とネタもちょっと、横光利一の「春は馬車に乗って」からとっています。でも意外に知名度のないこの作品、いや、名短編といったらこれですよー(知らなかった、という方は是非読まれて唸ったりため息ついたりされてください)。というわけでまたしても不敬罪を犯す茉莉でありました。