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おもかげ








レモンの木は花さきくらき林の中に
こがね色したる柑子は枝もたわゝにみのり
青く晴れし空よりしづやかに風吹き
ミルテの木はしづかにラウレルの木は高く
くもにそびえて立てる国をしるやかなたへ
君と共にゆかまし











 三月。開け放った細長い窓は中庭に面して、風をはらんで膨らむカーテンは裏側から陽光に煽られて輪郭を薄くする。寮の部屋は学年ごとに移動になるから、まだ半年ばかりしか暮らさない、けれど僕の部屋であった部屋を、片端からひっくりかえした。扉という扉を開き抽斗を空け。抜殻になった繭のような体操着もジャケットも靴下もノートも、タオルもたくさんのファイルも、――もう必要ないもので、あれもこれも、なにもかももう要らないものだったから、僕は懐かしい眩暈がした。
 持ちものなんてなにもないんだ。
 それらの多くには、かならずどこかしらに僕の名前がフルネームで書き込まれている。学校の規則だからだ。でももうみんな他人の持ちものみたいに見えた。一瞬で。まるではじめから、なにも、僕の持ちものではなかったかのように。
 なにも、ないんだ。
それは懐かしい感覚だった。あまりに近すぎて、懐かしいことさえ注意しなければわからないくらいに。僕をいつだって離さなかったくせに、最近は噛み付いてこなかったな。――旅に出ていたからだ。そう気付いて、瞼の脇が意識せずに僅かに引き攣れた。喉の奥が熱く痛かった。痛みなのに僕の肉は反発しなかった。そうして窓辺を見た。
 そこにカーテンに嬲られて、在るもの。柔らかい陽光が細い糸のように纏わり。時間が止まったかのように。
 其処で時間が止まっている。
 この部屋に再び帰って来てから、僕の時間は、止まった。
 期限付きだ。そんなことは知っていた。僕は僕の時間を動かさなければならないから。
 そうして部屋の中央に一昨日まで使っていた最後の教科書の束を積み上げた。準備完了。あとは処分するだけ。この細長い、昼下がりの黄金に蕩ける窓から一気に放り投げて、バラバラに中庭に落ちていくこれらが、僕の持ちものだったらしいこれらのものが、石畳や芝生に当たる前に蔓が伸び、芽が萌え、細い葉に分かれて、柔らかい生きた緑の塊になって散るところを僕は想像した。目を戻すとまだ書物のかたちをしているその山の一番上が、ふと風でページが捲れて、切り取られた 連続写真のように目の中を一つの単語が掠った。
 dahin.
(かしこへ、)
 先週習ったばかりのところだから僕は瞬間的にその単語を訳した。かしこへ。誘われるように手が動いてページを開いた。その恐ろしく有名な詩句を、瞬きの音もさせず目が追った。喉がひどく渇いた。

(君と共にゆかまし)

(君と共に、)


「――ジョバァーナ! おい、ジョルノ!」
 誰かが僕の名を呼んだ、それも大声で。ページから目を上げて開け放ってあったドアを見ると、息を切らしてクラスメイトの一人が立っていた。比較的よく話す相手だ。たぶん彼が監督生だからだなとぼんやり思った。


*******


 土曜だっていうのに朝からガタガタ音がしていたんだって。床の上に放り投げる音とか抽斗を端から開ける音とか。フランチェスコ棟の二階の一番隅はジョルノ・ジョバァーナの部屋だ。彼は数週間ばかりいなかった。無断欠席だった。僕らはさんざ噂した。
――実家に問い合わせたらお話にならなかったんだって。ゼフェッリ先生が訪ねたら家には誰も住んでなくてさ。
――マジで。父親はアル中で入院中、母親は別の男の部屋にいたらしいよ。
 そんないかにも嘘くさい、陰のあるゴシップに僕らが飽きなかったのは彼が輝いていたからだった。誰にも分け隔てなかったし軽口もたたいた。学校を出れば女の子たちがきゃあきゃあ騒いで寄って来た。スポーツは万能だった。成績はいつも三番だった。――誰にも言わなかったけれど、僕は彼がわざとそうしているんだと思っていた。学年じゅうの誰とも親しく話した。皆そう思っていた。けれど。
 そして学年じゅうの誰とも親しくなかった、と、僕は口には出さず思っていたのだ。いつも。
 出来る明るい生徒のくせに、彼は不思議なほど教師に贔屓されなかった。昔ならいざ知らず、たとえば寮を仕切る監督生は、今は成績ではなくて素行重視の人望で選ばれる。彼ではなくて僕が指名された時から僕は何かおかしいと思い始めた。彼はなにかおかしいと。意識して、朝夕の点呼の際外出手続きの際、彼にそれとなく話しかけるようにしていて気付いた。彼には恐ろしいほどに隙がないし陰もないのだ。――そんな人間はいないはずなのに。誰も彼の片鱗すら掴んでいない。だから。
 彼に視線を向けられることなしには、誰も彼に向かうことができないのだ。究極的な意味では。

 長期の無断欠席のあとジョルノ・ジョバァーナは何食わぬ顔で教室に寮に戻って来た。けれど何かが違っていた。僕らは誰も彼に話しかけられなかった。彼はもうそのための努力なんかしていないんだ、と僕は秘かに思った。
 彼はもう僕らなんか義理にだって見てはいなかった。
 皆口には出さないけれど何となくそれを感じていた。何だか意味もなく悔しく、僕だけは鈍感に気付かないふりをした。明るく温厚な監督生のロールをことさら強調して、何でもなかったみたいに彼に話しかけた。――もう先生と話した? やっぱり個人補習あるの? ノート要るんならあるけど? 彼の返事は、以前と何もかわらなかった。笑顔も見せた。そうして全てがもとに戻った、ように見えた。冬が終わって春が来た。
 その土曜日、昼過ぎ、数人が僕の所へ注進に来た。ジョバァーナがさ。朝から何か部屋をひっくり返してるみたいなんだって。噂だけどさ、皆言ってるよ、あいつさあ――僕が廊下を直進する横でばたばたと部屋部屋のドアが開いて、好奇心丸出しの首が幾つも覗いた。

 開け放ったドアから中を見た瞬間、三月、南向きの部屋の中は光で一杯で――物が積み上げられてしっちゃかめっちゃかの部屋と、逆光を背後一杯に浴びて天使のように輪郭を浮かせた、表情が陰で見えない彼を前に僕は立ちすくんだ。それでも、喉を奮い立たせて一気に言った。
「何やってんだ、おまえ、この部屋、――学校、辞めるって本当か?」
 彼はほんの一瞬、茫然とした表情を見せたが、光の洪水を抜けてこちらに歩いて来、いつものやけに落ち着いた、――僅かに悪戯っぽい顔をして僕の目を下から覗き込んだ。背だけは僕の方が少し高い。
「誰がそんなこと?」
「皆言ってる」
「ふうん」
 乱暴に丸めた何かの本をいい加減に胸に押し当てた。きらり、と輝いた、視線がいつもよりさらにまっすぐで硬く触れば切れそうだ。いつもと変わらず落ち着いているのに、どこか不安定なゆらぎがあって、僕は更に緊張した。
「でも訊きに来たのは君だけだったってわけだ」そう言って笑った。
 それで、辞めるのかよ。そう訊くことはもうできなかった。彼は辞めるのだと、瞬間的に僕はわかった。沈黙を作りたくなかった。それで口を開くまま適当に言った。目を見られないから、彼の糊のきいた制服の胸に視線を落として。
「それ、ドイツ語?」
 当たり前だ。僕だって毎週使ってる教科書じゃあないか。「予習でも?」
「もう習ったところだよ」答えて彼は本を胸から放し、ぶら下げるように掲げると、おそろしく正確な発音で読んだ。「――レモンの木は花さきくらき林の中に、」
 そして僕はドイツ語は苦手なんだ。声がうわずってさらに下手くそになる。「あ、『ヴィルヘルム・マイスター』だよね。ダーヒン、ダーヒン、メヒト、イッヒ、ミット、ディア、オ、マイン、ゲリープテ」
「ゲリープター」と彼は子供っぽく声をかぶせた。「不定冠詞は弱変化だよ」
 それから僕が間違えたところを朗読した。それは正しく朗読だった。恐ろしく張りのある澄んだ声で。いつもより僅かに、聴きなれぬ熱の混じる音で。

「――かしこへ! かしこへ! 君と共にゆかまし、おお、わが最愛の人よ」

 ぱたり、と音立てて教科書を閉じ、――おそらく二度と彼には必要のない教科書を閉じ――うず高い山の天辺に置いてジョルノは僕に言った。ごく僅かに微笑んだ。
「こんなのは北方人が南に憧れて歌った想念上のイタリアなんだ。こんな国はどこにもないんだ」
「レモンて、あれだろ?」
 光に目が慣れてようやく窓を正視できるようになった僕は彼の肩を斜にすかしてそれを眺めた。この時意識の俎上で初めて思ったけれど、僕はやはり、彼に特別に関心を持っていたのかもしれない。長期欠席する前と、後、何ひとつ変わらない部屋の中で、たったひとつその窓辺のガラスのコップが付け加わったことに、僕は彼が戻って来た日の最初の点呼で気付いていたのだった。
 僕の質問のあと、彼は数秒の間黙っていた。珍しいことだった。
「――そうだよレモンだ。よく知ってるね」と答えた。
 水を入れた透明なガラスのコップには、特に変哲もない緑の小枝が二本差してあるのだった。それぞれ違う木の枝だった。それはもちろん窓辺のインテリアとしては些か違和感があって――なおかつ、必要なものだけが完璧に揃った彼の部屋でたったひとつ異質なものだった。それで最初から印象に残っていたのだ。
 コップの中のレモンの枝は細くしかし硬そうで、果樹の枝特有の艶めかしくすらある優美な曲線をえがき、薄い緑の葉と先に小さく白い花をつけていた。
 それは目を射るほどに鋭い白だった。
「俺、実家が郊外の果樹農家なんだ。兄貴が継ぐんだけど。いつも休みに帰ると手伝ったりするよ。横の実がついてるのはオリーヴだね。」
 レモンの横には、滑らかな樹皮、力強くしなやかな枝ぶりと深い緑色の葉、そしてどこまでも深い黒い実のついた一枝。
「へえ偉いな」とジョルノはふと首を傾げて睨むほど鋭く僕を見た。「じゃあ詳しいはずだよね」
 見透かされているのだろうか、と思った。このコップを印象していた、もうひとつの理由。けれど彼の視線は僕にその先を言わせなかった。何か表情が込められているわけではないのに、自然と問いのことばが出なくなった。僕は黙って立っていた。
 レモンの開花時期は確かに長い。けれどそれは五月から十一月で、幾らなんでも三月は早すぎる。そしてオリーヴは開花時期が五月から六月、実の収穫が十月以降で結実するのはその間。今は三月。さらにいえば。ジョルノが学校に戻って来てから既に数ヶ月経っている。最初の日に既にこの枝のコップが窓辺にあった。そして今日まで、毎日点呼に来る僕の視界で、それは寸分違わぬままいまもそこにある。――いくらなんでも、なぜ枯れない?「そうだオリーヴだよ」
 繰り返す疑問をジョルノの澄んだ声が断ち切った。
「創世記の箱舟の話さ、小学校の時宗教の時間に習っただろ?」
 ガラスを針で弾くような。硬く張り切ったけんのある、しかしどこか上の空のような声。僕はどぎまぎしながらも、黙って頷いた。やはり彼は今日、少し調子が違う。
「希望の水没した世界で、ノアが放った鳩が咥えて戻って来た希望の枝だよ。以来オリーヴの枝は希望のシンボルだ。僕が木の種類まで決めたわけじゃないんだ。僕はただ――」
 そうしてふっと黙った。
 僕にはその文脈も、彼が何を考えているのかも、もう欠片もわからなかった。けれど考えてみればいつだってそうだったのだ。ただ彼が辞めるのだ、ともういちど思った。
「…片付けとか、もし手伝いが要るなら」
「いや、大丈夫だよ」
 ジョルノは頷いて出て行く僕を少しも見なかった。目に見えぬ糸でぴんと縫いとられたように、その眼差しの先に在るもの。憧れの枝と、希望の枝。
「髪の毛だ」
 背を向けた後ろから微か、独り言のような声がした。
「は?」
「――これはね、髪の毛なんだよ」
「何? 何言ってるんだお前?」
「何でもない。…独り言。行けよ。」


*******


(レモンの木は花さきくらき林の中に)
 行ってしまった、ああ、行ってしまった。エウリディチェを死なせたオルフェウスのように、僕にも行く手が開かれたなら命を賭してでも追って行っただろう。それはもう、自分に呆れるくらいの勢いで。そしてあの意志薄弱な竪琴弾きのようなへまなんか絶対にしなかっただろう。
 けれど僕に道は開かれなかった。何の為の能力だろう。
 あなたを行かせた。
 追いついて、掴んで、引き寄せるはずだった、この掌の中で冷たく撓んで光って滑るはずだった白金の髪の。もう僕が親しく統べる温かみの抜け去ってしまったその一房を、誰にも言わずに持って来たのは、僕のエゴだ。――もしかしたら彼だけは気付いていたかもしれない。否、気付いていなかった筈はない。あのとき既に血の温かみを失っていた彼。総てを見徹そうとしなおかつ痛みを親しく知っていたあの眼。だから僕は。僕はどうしたって、銀糸の一束だけそっと持ち帰って来ることはできなかった。――あなたのために。
 あなたたちのために。
 これも僕のエゴか? 違う。胸が痛い。
 僕の手の中、頭の中を真っ白にして焼き切れる念だけを込めた――あなたの欠片はレモンの枝に。影も瑞々しく麗しい薫り高き枝に。そしてあなたの身体はあのときかの地に。胸から温かい血を流し尽して、僕はそれを見たのだ。
 そうだあなたは行ってしまった。それがあなたたちの安息の地だったのかもしれない。なぜなら、彼も。一言も交わさずに、相次いであなたたちは。
(青く晴れし空よりしづやかに風吹き)
 行けない。ああ僕は行けない。
 僕は其処へ行かない。

(…くもにそびえて立てる国をしるやかなたへ、
君と共にゆかまし)


*******


 回廊形になった廊下の角を曲がるとき。丁度対角線上になった一つの窓、たったひとつ開け放たれて光がカーテンを嬲る窓、たった今僕が後にしてきた、今日限りまで奇妙な同級生のものであったその窓からひらりと、彼が飛び降りるのを見た。芝生の岡に着地して、崩れるように上体を両腕で抱き、倒れ、そのままごろごろと草丘を転がった。
 僕は足を止めた。
 左胸を押さえて! 制服の生地をきつく掴んで! 中庭の草丘に突っ伏すジョルノ・ジョバァーナ、あの金色の燃えるような髪と青い眼をした、仔獅子のような少年の、緑の丘を燃え上がらせて苦しく熱い息を吐く姿を僕は見たのだ。


*******


「僕はギャング・スターになります。」
 言ったときにこの世界なんか捨てたつもりでいた。ねばつく愛着も愛憎も感傷も振り捨てて、まっすぐで触れれば切れる刃のような理想と目的のみの道へ。そう言いはなった先の男に、あの音もなく燃える高熱の焔と涙の漣が寄り合って静かに流れるような、直ぐな黒髪のあの男の向こうに、――揺らめいて硬く脆い恋を見つけた、それはあまりにも美しく掴むに危なく、
 だからいまいちど言おう。
「僕はギャング・スターになります。」
 3月25日。僕はこの寮を出た。あなたに訪れなかった二十一回目の誕生日を記念とし。その日を限りこの世界を出た。未練はひとつもない。ただ記念が欲しかっただけ。
 この日を待っていただけだった。













+後記+
…そろそろひとりよがり女王とかの称号を頂戴しそうなマリィです。バレンタイン企画から引き続き「周縁から攻め」癖が抜けておりません。ってこれのどこがアバッキオの誕生日小説なのよ、と我に返ってみるとそりゃあそうだ、でも書いてる最中はジョルノに移入しているので思いっきり誕生日小説のつもりだったのでした。…(こっそり)せつなかったです。…途中で目が醒めない救いようのなさに全ての元凶がありますね。
冒頭の詩はもちろんゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』からミニヨンの歌、訳詩集『於母影』より森鴎外の訳です。明治の人はいざ知らずこんな現代っ子でも、この日本語は思わず唸りますよ。なぜか原詩の最後の情熱的なリフレインを鴎外は訳していないのですが、逆にあそこで切ったことで原詩にはない妙な、しかしむやみやたらなせつなさが生じているんですよね。
…というわけで。勝手にこれを以てわたしの卒業記念ともすることにします。(こっそり







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