――ネアポリス。午前六時。夜が明けて間もなく、ようよう光に透過されだした空気は暗闇のまどろみと停滞を削いで、冷たさを研いで、水色の気流が細い硬い糸のように路地を渡る。素早く。刺すように絡めとるように。
幾つかあるうちの一つ、もっとも繁華街に近い、小さな警察署の前に止まる一台のパトカー。サイレンは鳴らさない。水盤のような冷たい朝の静寂に無音の波紋を広げ、扉が開く。手錠をかけられた小さな姿を制服警官が曳くように連れて静まり返った建物のなかに消え、数分して中からばたばたと駆け出して来た三人を乗せてまた走り去る。そのなかには先程の警官も含まれている。
ややあって。別方向から、朝霞を慎ましい金属音に軋ませて現れ、署の前に乱暴に停められる一台の自転車。――
ひよことチョコレート
「仕事仕事」
と言うのに重ねて、ブルネットの制服警官は開け放った仮眠室の戸口に寄りかかって立ち、パン、パン、と手を大きく鳴らした。しなやかで厚い背中を反らし気味に、精悍な頬、鋭く硬い瞳、けれどわざとだらしなく半開きにした口許に少し愛嬌がある。
「なんだおい情けねえなてめえら、」
仮眠台の上に制服のシャツとズボンだけで丸くなり、やっと起き上がり出した二人の同僚を見ながら。清明な声、涼しい眦、しかしやはりどこか、人懐こくもある。
「さっさと起きろアドルフォ」
歩いて行ってまだ目をこすっている一人に寄り軽く頬を叩く。もう一人は既に起き上がり、ぼさぼさの頭のままで半分手探りでネクタイを締めている。もう体は訓練されているけれど、眠気は眠気のようだ。
「畜生、仮眠に入ったばかりだっていうのに」
と叩かれたアドルフォは犬のように首を振りながら恨めしそうにブルネットの警官を見上げた。
「大体なんでお前がいるんだよジョバンニ? 当直の奴らどうした」
「とっくに出てったよ。俺らだって叩き起こされてその代わりに呼ばれたんだ、応援で待機しとけってな」
「何だ」と、途端に寝ぼけ顔が引き締まる。その視線をかちん、と返すように硬質な瞳を光らせてジョバンニ、と呼ばれた警官は一言答える。
「トラリャテッラ・ホテルで抗争」
「またか。どうせ下っ端のケンカみたいなもんだろ」
「それでもギャングだし銃も持ってる。人数は先月の二倍だ。」
「こんな朝っぱらから」
ギャングのくせに大分御精勤で、と言いながらアドルフォがロッカーを開ける。
「まったくだ。隣の署からも当直総動員して、あとは寮から叩き起こしてあとを埋めてる。俺らみたいにな」
「俺ら?」
「ああ、この間来た新人だろ、お前んとこの」ネクタイを締め終わったもう一人が、髪を撫で付けながら振り返る。
「ああ? 何て言ったっけあいつ、」
「レオーネ」とジョバンニは呟くように答える。
「レオーネ?」
「レオーネ・アバッキオ」
低い口笛を吹くように、ゆっくりと発音して。
「アバッキオ。そうそう、ブロンドのね。…んあ? あいつもお前んとこなのか? この間居た奴どうした」
「とっくに転属になったよ」
「で、今何してんだ、そのアバッキオは」
「ああ朝飯の支度してる。今のうちに何か食っとかねえと」
と言って横目で脇の簡易キッチンに続く無機質な扉を示す。
「律儀だねえどこでも新人連れて歩いて。どうせ今朝だって指令がきたのはお前一人だろ。」
「それはそうだが。いやどうして、助かったんだよ」と言うとジョバンニは口許に拳を当ててくつくつと楽しそうに笑った。
「丁度昨日俺の原付修理に出したとこでさ。寮から急ぎじゃあな」
「それでどうしたんだ?」
「あいつのチャリに野郎二人乗りで来た」
寝起きの二人は楽しそうなジョバンニを前に、ふとぽかんと、黙った。丸くした目を困惑したように見合わせる。
「…あのさ。」
「何だよ?」
「…どうして奴のチャリ借りてお前一人で来ないんだ?」
今度はジョバンニがきょとんと目を丸くした。それからゆっくりと口が開いた。
「…あ、そうか?」
途端にあとのふたりは一気に解けたように笑い出し、背中を折って、ロッカーの扉をばしばし叩いて噎せる。
「お前! お前さあ、人当たり良くて実は抜け目ないふりして、本当はただ人がいいだけだろ実は?」
「チャリのケツに新人乗っけてさあ!」
「…いやそうでもないぞ」
「この上何を言う」
「いや漕がした」
「漕がした?」
「だから俺がケツ」
「おいおいマジかよ!」
「いや、あいつがどうしても自分が漕ぐって言い張って聞かないからさ」
そう言って僅か数秒、何か思い出すように瞼を伏せて、薄い唇が笑みのかたちをつくった。
「しっかしお前もいつから新人係になったんだ?」
「そうそう、いっそ腕章でもつけた方がいいんじゃねえの?「教育係」とか書いてさ」
「イヤそれより「めんどり」とかの方が合ってるぜ。この世話焼きは」
「何だそれ」
と吹きだした本人の横で、フランス育ちのカルロがゆっくり、正確な発音で訳してみせた。「――ココット、」
「おい何だ?俺はクルティザンヌか?」長い両腕を腰に巻きつけてしなをつくり、ブルネットの下から悪戯っぽい流し目が光る。
「このアホ、」とアドルフォの繰り出す軽い拳をゆっくり避けた、横からカルロが笑いながら言う。「クルティザンヌ、って言ったらお前じゃあなくてむしろあいつだろ」
つられてアドルフォもキッチンのドアに目を遣った。
「あいつさ、でも一応イタリア人なんだろ? 北欧系か何か?」
「なにをどうしたら警官になろうなんて思うんだろうな、ああいうルックスの奴がさ」
「さあな」と言ってジョバンニは含み笑いをした。「――お前らが上司じゃなかったら、あいつに向かってそう言った瞬間に顔面蹴られてるよ。血の気が余ってるからな」
「血の気」カルロはくだんの新人の、雪花石膏のトルソと見まがう冷たい膚の色を思い出して肩をすくめた。「へええ。どこに余ってんのかな」
「…とにかく、あいつはココットじゃねえよ。プルチネット、ヒヨコだ」
「ヒヨコねえ」
「ヒヨコだ」
黒い瞳から真直ぐなまなざしを光らせて繰り返したかれは、次の瞬間、俄かに僅かな悪戯気を霧散させる。「それでも頭数は多い方が好いんだ。うちは今もう一件別にかかってんだぞ、お前らが寝てる間にな」
「何だと」
「トラリャテッラ・ホテルだけじゃない」
色めきたつ同僚二人をす、と挙げた両掌で押しとどめて、ジョバンニは続けた。
「ヤクだよ。今朝の五時に空港で挙がった。それが粋というんだか悪趣味というんだか。十二、三の坊主がバッグ一杯に詰めてたチョコレート・エッグの中を開けてみりゃあな。――二月十四日聖ヴァレンタイン・デイの朝にね!」
「くそ、」とカルロが眉を顰める。「――赤ずきん、てやつだな」
「そうだどうせ、洗ったってろくに出やしない。もともと足がつくような何も知らされてないんだ。そのためにガキを騙して運び屋に使いやがる。被らされて少年院で済むと思って――」
黒い目が無音の焔に燃えて、畜生、その形に歪められた唇は音を発さない。その気迫に染められたようにカルロが逸って訊ねる。
「それで、それは今うちで?」
「そう。なんでかこんな時間から出勤してたセニョリータ・キアラが今当たってる」
「――なるほど、ガキには婦警だよな」
「そして、それで駄目ならジョバンニの出番だ」とアドルフォが続けた。「――チョコ・エッグに赤ずきんかよ。畜生汚ねえな」
ジョバンニが静かに火花散るような黒い睫毛を伏せた、その瞬間、ロッカー脇のドアが勢いよく開く。六個の目が集まる先に靴先で蹴り開けた、プラチナブロンドの冷たく光る、若い警官が四角い大きな盆を抱えて。
「アバッキオ、」と懐かしい声に呼ばれた白い頸がぴくりと伸びて。
「はい、先輩。朝飯の用意を、」と伸びやかな清々しい声が答える。
「有難う、」
「おいちょっと待てッ」
不意をくらって一瞬怯んだ当直の二人がしかし、眉を歪めて目を見合わせた。雑に盛られたチャバッタ、チーズ、オリーヴ、その横の。
「この匂いなんだお前、」
「――カフェ、じゃないだろ?」と揃って盆の上の白く無機質な、温かい湯気を立てる大きなポットを凝視する。
訊かれた若い警官は不意打ちに雪花石膏の頬をさ、と薔薇色に上気させ、端整に過ぎる金色の長い睫毛をきり、と上げて答えた。「はい、カフェではなくてチョコラータです」
些か棒読みに。緊張しているのだろう、それでも頸を上げ、煌く瞼を揺らし、唖然と目をむいた先輩二人に向かって霧を払うような声で続けた。「――あの、先輩方先程チョコ、チョコって頻りに言ってませんでした? それが聞こえたから、カフェよりチョコラータの方が好いのかと思って。丁度キッチンの棚にも箱が置いてあったし、」
「――プルチネット!」頓狂な声を上げてカルロがばっ、と両掌を広げ、肩を竦める。
「バカ野郎ッお前!」とアドルフォが持ち前の雷を落とす。
「朝っぱらからそんなもん飲めるかよ! 朝はカフェに決まってんだろうが!」
「しッ失礼しましたッ!」
「おいアドルフォそんなもん淹れなおせばいいだけの話だろ、」と割って入るジョバンニの肩には珍しく、些か力が入りすぎ、しかしその場をおさめたのは彼ではなくて、
バンッ
と音を立てて開いた正面のドアだった。
「ああああああああ。」
肺の奥から絞り出すような掠れた力の籠もったアルトも。蜂蜜色の髪を一糸乱れぬひっつめに結い、黒縁の眼鏡をかけたセニョリータ・キアラことこの署の最古株婦警が肩をいからせて、現れた。
「ことによっちゃあ本当にあなたの出番よ、ジョバンニ」
歴代の若手を震撼させてきたその存在感は一気に波を渡らせ、飲み物云々で騒いでいた部屋の空気などあっというまに収束させ、――出すはずだった稚い言葉をとっさに飲みこんだ二人と頬にするどくさした薔薇色の消えない新人を控えて、呼ばれたブルネットの警官は硬く鎮静させた瞳を開き、いつものとおりの音調で。
「…幾つ?」
「身分証を持ってたわ。市内在住の十三歳。でももちろん、住所に電話したって誰も出やしない。」
「…割りませんか」
「…割るもなにも、連れてこられた時から黙りこんで下を向いて、ひとっこともなにも言わないのよ。私だってそういう赤ずきんちゃん相手は自信があるはずだったんだけど、あんまり暗くて思いつめた顔しているんだものはじめて根負けしそうだわ。」
ジョバンニはふと唇に手をあてたが、言葉が出るより先に、それは自分の後ろからぼそり、と響いた。「…分かってるんじゃないかな。」
振り向かずにここ数日ですっかり聴き慣れた声を聞く。見ずとももうわかる、思いつめたとき、あの睫毛の中の薄い菫がかった眼がどんなふうに閃くのか、冷たい色の膚がどんなふうに冴え返るのか。
「――自分が捨て駒だったって、」
かれの若い後輩が言い終わる前に、深く頷いたジョバンニは上げた顔を婦警に向ける。
「…僕も出ましょうか」
「それをお願いしに来たのよ」と答えて彼女は鼻の上の眼鏡の位置を直した。「ちょっと私一人じゃもうきついわ。たった今、その子の実の兄っていうのが出頭してきたのよ」
「兄? そうですか。それは子供じゃない?」
「そうね、まあね、そこのレオーネと同じ位かしら」
「良かったじゃないですか誰も出ないよりは。まさか兄貴までだんまりじゃないだろう、助けに出てくるくらいだから」
「ああ、それがでも、…もう、参ったわ」とセニョリータ・キアラは説明が面倒臭いというようにひらひらと手を振った。
「あると思う? 赤毛で鷲鼻のずんぐりした男の子の兄が、真直ぐな黒髪で黒い目で細身の長身って? 顔なんか似てないなんてものじゃないわよ。それでも身分証はちゃんと持ってるのよ。何かやたら物言いがしっかりしてて気持ち悪いくらいだわ」
「とにかく、僕が一緒に出て話してみますよ。戻りましょう。…あと頼む。トラリャテッラから連絡来たら教えてくれ」
言われた二人と新人は、先程までの騒ぎが嘘のように、表情をひきしめて無言で頷く。ジョバンニを先に出て行きかけた婦警がふと、足を止めて振り返った。戸口の小卓に置かれた湯気の立つポットに視線が落ちる。
「ねえ、なに、この匂い。…これ、チョコラータ?」
「そうです」
「どういう風の吹きまわしよあなたたち。朝から甘いもの飲めたっけ?」
「飲めませんよ。こいつが間違えて、」と、顎で示された新人は血色の透けて紅い唇を引き締め、長い睫毛を僅かに伏せる。
「ああそう、じゃあ、飲まないんでしょ?」と彼女はチャバッタの皿を退け、ポットとカップだけの盆を両手で持ち上げた。「持って行ってもいいわね。あの子たちに出すから。何か聴取室の暖房具合が悪くて、子供には寒くって可哀相なのよ。有難う、レオーネ」
踵を返した女史の向こうから、ふと半身振り向いた先輩警官が数秒、温かい瞬きを送ってみせる。弾かれたように背筋を伸ばしたくだんのレオーネ・アバッキオ、勤続三か月目の十八歳の、普段は冷たいとも取られるほど澄み徹った目の底にちらりと明るい瞬きが戻り、それから力をこめて、目礼をした。またやってしまったミスの、勘違いの、二月十四日早朝のホットチョコレートが、しかし不運な「赤ずきん」の少年とその怪しい自称兄の冷えた身体を、少しでも温めるのだと考えた。
+後記+
2005年バレンタイン企画に乗っからせていただこう、というコンセプトの小説だったので、「チョコ…チョコ…」から考えたのですがこんなのになりました。出来不出来はともかく、書いていて大変楽しかったです。やっぱり好きなキャラは周縁から攻めるのがわたしは好きみたいだ(笑)そして以前からやってみたかった先輩物です。1月のオンリーでコスした時にも実感したのですが、この方は、名前がないんですよね。で、既に余所の素敵サイト様で付けられていたりするのだけれどもまさかそれをちょっぱるわけにもいかず、ちょっと考えた挙句、ジョバンニになりました(爆)。あれですよ、わたしとしては(逆だけど)アバッキオと先輩というのはジョバンニとカムパネルラなんですよ(ゆずりさん蝶ごめんなさい)。
…えと、警察のことなど色々まったく調べ物をしておらず信憑性が皆無に等しいです。あとわたしはフランス語もイタリア語もできませんが、「クルティザンヌ」は仏語で高級娼婦の意、「ココット」は「雌鶏」だけれども裏で「娼婦」をさしたらしいです。ひよこはイタリア語で「プルチノ」その指小語が「プルチネット」なのだそうです。指小語…? 多分ドイツ語の -chen とか -lein みたいなものなんだろうと勝手に解釈してますが。あと「赤ずきん」はもちろん「人狼」からのちょっぱりで…これは、ちょっと不敬罪級かもしれません。ファンの方すみません。自分もファンなのに。…
タイトルは「苺とチョコレート」(93年キューバ)から。この映画最高です!本当に好きです。――「あいつはホモだ。苺のアイスクリームを食べてたからな。」