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顔の綺麗な女







顔の綺麗な女は嫌いだ。
「ハルノちゃん」
 僕は返事をしない。誰も呼ばない名前で僕を呼ぶ。僕は返事をしない。
「ハルノちゃん」
 僕は返事をしない。
「何ですか」
 ちり、と細い血管が攣れ潰れるような痛み。僕は返事をしなかったのだ。それなのに、そんなことすら通じない。たまに旦那より早く家に帰ってくれば、顔の綺麗なこの女は僕と向かい合って座る。どちらともなく。惰性。冷蔵庫に入っていたジュースとミネラルウォーターを瓶のままテーブルに置いて、半分ずつグラスに注ぐ。半分抜けた古い炭酸の苦味とひどく薄まったオレンジの味、惰性の味。
 笑ってしまう。眉が僅かに震える。その名前は何なのだ。
「なにつんつんしてるのよ。あんたいつも機嫌悪いわね。ちょっとは笑いなさいよ。あたしみたいにね」
「じゃあやってみましょうか」
 喧嘩を売るのが得意なこの女から生まれた僕は絶対に自分から喧嘩を売らない。ただし、売られた喧嘩を残さず買ってしまう性分に育った。思い切りわざとらしく目を細め、唇を歪めて笑う。ちりり、とまたどこかで何かが裂ける音がする。
 そんな笑い顔を見て彼女はにっこり笑った。気味の悪い程美しい笑顔だった。影がないのだ。茎のない首だけの花みたいだった。顔の綺麗な女は嫌いだ。他に何も持っていないから。影一つこの手に残らないから。顔の綺麗な女はただ一つのことしか知らない。自分が綺麗であるということだけを知っている。それは即ち人の目に綺麗に映るということにほかならないが、彼女にとってそんなことは問題じゃない。顔の綺麗な女はただ一つのことしか知りたがらない。それが世界を知ることなのだ。最大の皮肉、と僕は静かに口の中で呟く。あなたが子供を産めただなんて。
「その名前はもう誰も呼ばないんですよ」と僕は言った。
「でもあたしがつけた名前だもの」と彼女が言った。そしてまた笑った。
 僕は俯いて味の薄い果汁を飲む。テーブルの上は災害の後のように散らかっている。十歳を過ぎたあたりでもう片付けるのを諦めてしまった。自分の部屋は三日に一度掃除するが、それ以外の場所は日常生活が困難になるまでもうやらない。魔の永久運動とはこのことで、母親は家事のかの字も夢にも思いつかないし、掃除をすれば酒乱の養父が一晩で全て元通りにしてしまう。それを一々片付けていた幼い頃、床を拭けば床がきれいになったぶん、汚れが自分に移る気がした。片付けたガラスの破片は自分の胸に突き刺さっている気がした。被害妄想だ。それが悔しいから止めた。全く無駄な感情だ。
 無駄なことは嫌いなんだ。彼女には言葉はなにひとつ通じないのだから。彼女の目には僕は見えていないのだから。
 彼女なんか永劫にただ一つのことしか知らないのだから。
「何か今日あいつ遅いじゃない?いつも何時ごろ帰ってきてるの?」
「大体もう帰ってきてますね」
「つまんない人生よね」と彼女はピンク・ベージュに塗った綺麗な唇から言った。「仕事からまっすぐ帰ってきて酔っ払って暴れるなんてさ。モテないのよ。だから出世もできなかったし」
 養父には憎しみと恐怖しか感じなかった。今は憐憫しか感じない。彼の状況はよく分かる。彼の器で背負える相手ではない、相手が悪かったとしか言いようがない。だが彼は愚かだ。わめき散らして罵り、自分を嘲っている。壁を殴り自分を殴って血を流している。蹴り倒した机は机でなくて自分だ。彼女を憎んではいけない。愛してもいけない。それは全て無駄だから。
「あたし家出しちゃおうかな。」
「したらどうですか。今と何が違うのかわかりませんけど」
「ハルノちゃんもしなさいよ」と彼女は楽しそうに言った。
「出て行きますよ」と僕は言った。
「そうよ、あんたなら、絶対誰かが拾って面倒見てくれるわよ」
 無駄なことは嫌いなんだ。けれど痛いものは痛い。僕は唇の両端を上げて作り笑いをし、視界が少しだけ潤い膨らんで揺れたが、彼女を睨んだ。
「あたしはどうかしら。あたしだってまだまだいけるわよね。ね、そう思うでしょう?」
「さすがにひどい」と僕はやっと言って、まだわからないのならと露骨に睨む。
「ああ、やだ、睨まないで」と彼女は言って顔の前で手を振った。「ひどくないわよ。あんただってこんな親は最低だと思って見下してるんでしょう? あたしと違って頭いいものね。だから出てったほうがいいんじゃない? 大丈夫よ。ハルノちゃんはそうやって睨まなきゃすごく可愛いんだからね」
「可愛くありませんよ」
「可愛いに決まってるじゃないの。あたしの子だもん。」
彼女ははっきりと請合うように、微笑んでそう言った。
 僕は短く目を閉じる。
 この人に帰ってきて欲しかったこと、恨んでも憎んでも軽蔑しても、夜更けにドアの鍵が開く音がすれば苦しく詰めていた息がほどけたこと、養父に殴られている時に彼女の姿を探したこと、殴られている僕を見つけた彼女の悲鳴を聞くと突然涙が出たこと。全ての不条理。僕をイタリア名で呼ばないこと。名前などない僕に名前をつけたと言うこと。呼ばれたら返事をしてしまったこと、こうして無為と皮肉と疲労の塊であるテーブルについてしまい、刃物のように輝いている顔の綺麗なこの女といま向かい合ってしまっていること。僕はもう否定はしない。空を渡る鳥の力強い胸と同じように、天を目指して伸びる雑草と同じように僕は鼓動し燃える一つの生命を持っている。傷つけば血を流し、抱けば温かい。それは尊いことなのだ。
 僕は出て行かなければならない。僕に用意された場所など、はじめからなかったのだ。けれど僕は生れ落ち温かい血を巡らせ呼吸している。僕はそれを疑わない。にもかかわらず僕は疑わない。
 温かい愛しいものを見つけたら抱きしめよう。そのためにこの血を流そう。
「出て行きますよ」と僕はもう一度言った。ゆっくりと口を開き、出来るだけ落ち着いて。
「中学、全寮制に決めましたから。来月入学願書出すんです。学費は餞別で下さいね」















+後記+
「幸いなるかな」の後記でかいたようにジョルノのプロットへの再度のアプローチなわけですが。……主観的に過ぎる、ので、これはさすがにジョルノファンの方々の許容ラインに抵触するんではなかろうか、と思ってびくびくものです。先に謝っときます。もともと、2004年冬発行の5部本『ゴールデントライアングル』中の「顔の綺麗な男」と対で構想した話でした。いや実際に対なんですが…でもこちらはさすがに本なんかに載せるのはためらわれて分載とあいなりました。「女」がママなら、「顔の綺麗な男」は誰かって?…そりゃあ、もちろん(笑



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