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幸いなるかな


 悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる。(マタイ5.4)



 そのふたりは流れ者の男女の強盗で無差別で下品でおまけにヤク中だった。遣り口は子供のように考えなしでさらに残虐だった、この幼稚で派手で卑しさを覆うことすらできない余所者に誰もが眉を顰め、それは世界の表も裏も変わらない、腰の重い警察が右往左往する前にこの地区を仕切る俺のチームのリーダーは簡潔に命令を下した。
 〈リプレイ〉で居場所を突き止めて傾きかけたアパートの一室に踏み込んだのは俺とジョルノ・ジョバァーナ。二人で十分、あいつらは分かり易くイカレていた、薬は神経の強度をゼリーのように溶かし、動物的な恐怖はシンバルを打ち鳴らすように増幅されて響き振り切れ、やつらは恐慌状態のまま逆さに銃口を押し当て鈍い音がして折り重なって倒れた。突入してものの五分。ゴムのように鈍い弾力を朽ちた床に残して転がる身体。もう人間じゃない。かれらは人間であったのに。ここまで墜ちても人間であったのに。べたつく血と脳漿とが飛び散るさまを俺は瞳を動かさずに見ていた。
 目を逸らさないことはあいつの傍にいて学んだ。どれほど残虐なやり切れない場面を目の当たりにしようとも絶対に目を閉じてはいけない。その地に足をつけて立つ者として目を閉じてはいけない。ブチャラティは一言もそう言いはしなかった。教示もしなかった。ただ石のように完璧に、ほんの僅かも震わせはしないことで、内側の震えと燃えている怒りと悲しみの伝わる彼の肩から教わった。
 半歩前に立っている五歳下の新入りは表情一つ動かしはしない。癪だが見事なものだ。子供のくせに肝が据わり過ぎている。小賢しいし煩いし気に食わないがそれは認める。鈍く胸を衝かれるような気がした。
 彼の肩は僅かにも震えはしなかった。
「後始末は」と彼が訊く。
「警察にくれてやる」と短く答える。
「わかりました」
 とはっきりと言ったが彼はしかし踵を返しはせず、死体の奥の小部屋にまっすぐ踏み込んだ。視線の高さも表情も変わらずに真直ぐ前を見て。
「おいジョルノ、何をしてる」
 それには答えず、ジョルノは屈み込んでニスの剥がれた簡易キッチンの戸棚を引いた。
 子供が蹲っていた。
 四、五歳くらいの垢じみた衣服を着た少年だった。肌も髪も服と同じに薄汚れて発育がひどく悪く、本当はもう少し年かさなのかもしれない。少年はただ目を一杯に見開いていた。そして何の表情もなかった。
 ジョルノは戸棚の暗がりから少し離れた。
「おいで」
 と小声で言った。
 少年は素直に這い出して来てジョルノの前に立った。目の焦点が合わないまま動かず、聞こえてなどいないように見えるが、その実ちゃんと聞こえているようだった。目も見えているのだ。折り重なって転がる凄惨な死体も。
「あれは、お父さんとお母さん?」とジョルノは静かに訊いた。
 少年はごく僅かに頷いた。それから躊躇うような困惑するようなそぶりをみせた。頬と額に擦り傷がある。腕にも何か黒ずんだ跡がある。
 ジョルノは跪いて彼の腕に手を添えると躊躇わずに汚れたTシャツを捲った。痩せた胴にも同じ無数の傷跡。古いものの上に新しいもの。少年はされるがまま、立ち尽くし表情のないままで動かない。その彼の身体をジョルノは跪いたまま両腕で深く抱いた。
「悲しいだろう」と言った。
「思い切り悲しめばいい。君はもう悲しめるんだ。」
 少年の小さな肩に金髪の頭を乗せて。
「もう誰も君を撲たないから」
 少年はあどけない表情のまま黙って聞いていた。
「君はもう悲しむことが出来る。君は弱くない。君は強い。君はもう大丈夫だ。」
 それからジョルノは彼を放し、ここから一番近い修道院付属の救護院への道筋を紙に書いて説明した。一人で行けるねと訊いた。少年は頷いた。ジョルノは地図を書いた紙片の隅に「パッショーネ」のサインと印章を入れると小さな手に握らせた。三人で死体の転がる廃墟のようなアパートを出て、出たところで少年と別れた。


 アジトに帰ってくるとまだ他の誰も戻っていなかった。ジョルノ・ジョバァーナは長テーブルの角の椅子に無言で座り真直ぐに前を見ていた。表情には翳りはない。翳り以外にも何もない。曇りも翳りもなく澄んだ双眸は視線の先にぴたりと定められ、つまるところ、いつもと全く変わらない。
 俺は冷蔵庫からミネラルウォーターの小瓶を二本取り出す。炭酸入りの方。栓を開けて一本をグラスと一緒にジョルノの前に置く。彼は素直に手を伸ばし、注いでそれを飲み干した。無駄のないスマートな所作だった。俺は漠然と空恐ろしいような気がし、座らずに壁にもたれて瓶に口をつけた。「話せよ」
「何を」と彼は答えた。
「何でもいい」と俺は言った。「何か話してくれないか」
 それが、こいつにきちんとものを頼んだ最初だった。
「お望みなら」とジョルノは前を向いたまま言った。それから柔らかく姿勢を崩してテーブルに頬杖をついた。少し笑った。俺はいつの間に軽く詰めていた息をほどいて彼をまともに眺めた。「ああ」と肯った。
「それじゃあ僕の母親の話でも」
「ああ」
「僕の母親はとても美しい女性でした」
「過去形なのか」
「過去形です」
「もう生きていないのか」
「まだ生きていますよ」とジョルノは言った。
 そして続けた。
「僕の母親はとても美しい女性でした。それ以上説明する必要はありません。彼女にとってもそれ以上は必要ないからです。……彼女は僕を殴りはしませんでした。殴ったのは養父です。ある時期までのことですけれどね。彼女は僕を殴りはしなかった。そして二日に一度くらい僕に気付きました。そうすると抱きしめたり撫でたり、あるときは逆上して叱ったり罵ったりもしました。それからまたきれいさっぱり忘れてしまいました。その繰り返し。……彼女はそういう人でした。決して悪い人じゃない。根は善良なんです。きっとね。ただあまりにもなにもかもを簡単に忘れてしまうことの出来る人でした。十分経てば正反対のことを言う人でした。それが全くの本気なんです。…もう忘れてしまっているから。覚えていることは一つだけ。一日経っても二日経っても同じように美しい人でした。化け物のようにね。――誰にも愛されて、そして誰にも愛されませんでした。」
 と彼は少し間を置いて頬杖をついた手の指で短く唇を触った。
「12歳の時に家を出ました。僕にはそれが出来た。僕にはそれが出来ます。僕は強いから。僕は男だから。彼女とは違う。…女じゃなくて、本当に良かったと思ってるんですよ。もし自分が彼女の娘だったらと思うとぞっとする」
「何故だ」
「そうしたら簡単には逃げられませんよ。きっと二つの道しかない。彼女に似て美しければ、一生懸命彼女と同じになってありとあらゆることを忘れつづけて、死ぬまでたった一つのことしかわからない。そして似ないで美しくなければいじけた文学少女になってつまらない小説でも書くんですよ。――ところでどっちが幸福かわかりますか?」
 俺は答えなかった。
「前者に決まってます」と言ってジョルノは微笑んだ。
 それは撥ね付けるような明るい笑顔で、少し痛々しかった。こんな顔ははじめて見たと思った。
 ――誰にも愛されて、そして誰にも愛されませんでした。
 そう彼は言った。おそらくは彼が。
 彼女を最も愛した人間なのだろう。
「ええと、」とジョルノは口ごもる。鋭い刃もののように明瞭に。
「どうしようかな。まだ何か話しましょうか、せっかくだから」
 俺はテーブルの傍に歩いていった。他にどういう行動をとればいいのかわからなかったし考えもしなかった。自然に握りしめていた拳がほどけた。
「それとも今度はアバッキオ、あなたが、」
 そうして後ろからジョルノの肩に片手を置いた。
 彼は語を止めた。
 俺の体温は通常より低い。
 寝起きの頬に触れてブチャラティが笑い、手を握ってナランチャが大仰に驚くように。
 それでも微かな血の温かみはこの掌にあるはずだった。
 そうして俺は目の前の自分より小さな肩にただ手を置いたのだ。
 ジョルノは振り向かなかった。振り向かぬままで俺の手の上に手を重ねた。
 肩の上。その肩の上の俺の手。その俺の手の上に彼の手。
 肩の上の手を握りはしなかった。押し当てるように、掴みはせず、しかし静かな強い力がこめられていた。
 去るな、と言うように。
 肩の上から去るなと言うように。
 燃えるように熱い。掌の血の廻りが熱い。俺の手とは比べ物にならないほどに。押えられた手の甲へ熱は移る。
 温かい。熱い。
 そう思った瞬間に手はぎゅっと掴まれた。もう片方の手は長い髪の束を掴んで強く引き寄せた。不意を突かれてよろめくほどに。引いた髪から、首の後ろへ、手が腕が伸びて彼は俺の唇に唇を押しあてた。
 温かい。熱い。
 と思った。同時にはっとする悲しいような味がした。幸福のような味もした。肯うように、柔らかい口腔の中で俺の舌先を、彼の歯は軽く噛んだのだ。










+後記+
 キスシーンを書いてるのにこの色気の無さ。え、えっと、大マジメってこういうのです。すみません。わたしはジョルノはもう無茶苦茶に凄い奴だと思っていて、それには彼の家庭にかかわるプロットも深くからんでいます。何も持ってなかったのだ、この人は。イタリア人より金髪より、直系ジョースターじゃないこととこのプロットをもつ5代目「ジョジョ」に衝撃を受けました。それに1コマしかでてこなかったハルノママが何だかホリィさんや朋子さんよりずっとリアリティがあって。で、どうしてもそこに拘って過考察をしてしまうので、暗いししつこいですが、もう一回はこのネタをやってみたいと思っています。
 …何か若干微妙にイタい箇所とかもあるけど…笑っておきますね(ふふ。ところでアバッキオの一人称はジョルノやブチャラティに比べてものすごく書きにくかったです。もはや一人称として成立しておりません。この人はわたしにとって純然たる見られる人/語られる人なのでしょう。きっと。



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