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■Caution!■不可避的に、文中に映画「アメリカン・サイコ」のネタバレを含んでいます。これからこの映画を御覧になる予定のある方は、読まれない方が宜しいかと思われます。すみません……




I can't do this alone


 隣に寝ている人間が、息をしているかどうか、確かめてしまう。これは最近ついた癖だったろうか。それともずっと昔からそうだったのだろうか。眠りが浅いから、断続的に何度も、目が覚める。隣に寝ている人間が、息をしているかどうか、確かめてしまう。
 隣に寝ている人間? 一体いつから、俺の隣には人が寝ている? 一体いつからだろう。
 ああ呼吸の音を聞かせてくれ。その息を止めるな。
 そう強く願いすぎて俺は考えるのを止める。頭からブランケットを被っているから何も見えない。今日は本当に久しぶりのオフで、昨日は飲み過ぎたから、ブランケットの中にはもう明るい陽の光が柔らかくトーンを落として籠もっている。隣には人間が寝ていて、ブランケットごしにその身体を感じる。呼吸している。
 息を止めるな。
 その呼吸の調子がいつもと違う。かれはもう目覚めている。目覚めているのに俺の傍で息を殺している。俺は薄暗い漉された光の中で唇だけ動かして笑う。そしてこちらも息を殺して、動きを殺して、
「うわあッ」
 ブランケットの中から思い切り頭を突き上げるとそのすぐ上にあったレオーネ・アバッキオ、俺のチームの部下になってもう半月になるのに未だに集団行動のできない男、の上胸に直撃してかれは声を上げてのけぞって倒れた。
 パシャッ。
 途端に香水壜をぶちまけたように揮発する、刃物のように鋭く華やかな葡萄の香り。目を細めて飛沫を避けると昼の陽にきらきら光るその液体は倒れた男が思い切りこめかみに浴び。その両手に一つずつ空のワイングラスを握っており。水のようなプラチナブロンドが浴びた白葡萄酒は白銀の髪をなめらかに濡らして息苦しいほどきつく香り、その水気を陽光がぎらぎらと照らして乱反射させて、雪花石膏の白い膚の上も濡れて……光り、眩しくて俺は目を閉じて、小さな呻き声に五感を醒まされ、はっとして、
「くっ」
 と喉の奥で笑ってやると葡萄酒まみれの男が起き上がってきて整った眉根を露骨に寄せた。
「畜生」
「なんの真似だ?」
「あんたがオレより遅くまで寝てたためしがねえ。今日は先回りしたと思ったのに。」
「眠りが浅いんだ。それより」
 と俺は言葉を切ってアバッキオを見た。顎から胸へ長い髪の先を伝って光るワインが滴り落ち、俺が貸したがいつのまにかこいつの専用のようになっている白いコットンシャツの襟に染み、まだ両手にグラスを握ったままで。
「それはなんの真似だと聞いてるだろう」
「あんた、今日誕生日だろう」
「なに」
「二十歳だろ」
「……何で知ってる?」自分でも忘れていたのに。
「昨日ナランチャが騒いでたのを聞いたんだよ。あいつ絶対今日何か企んでるぜ。」
 とアバッキオは濡れた髪を頬に貼りつかせて随分決まり悪そうに言ったのだ。

 アバッキオの後しばらくしてムードメーカーのグイード・ミスタが入り、ようやくそう言えるくらいの人数を揃えたチームの雰囲気もずいぶん明るくなったのに、アバッキオは相変わらずつっぱってチームの皆と簡単に打ち解けようとしなかった。それでも同じテーブルに座って飯を食う。ただ黙っている。元々上からの仕事を的確にこなすためのチームなのだし、そもそもが変わり者ばかりだから、誰も何もかれにつまらないことを言いはしない。
 そしてこいつは仕事の後は俺の部屋に来る。飲まねえか、とかいつもそんなようなことを一言ばかり言って。俺の部屋で向かい合ってワインかグラッパを空ける。炭酸入りの酒は俺もあいつも好かない。必ずあいつが先にヘバる。心持ち染めたそれでも冷たい膚をだらしなく夜の室温に晒して、ベッドの角に寄りかかって「悪い今日泊まる」と言う。俺もいい加減軽くアルコールが回って構わない気になっている、「ああ好きにしろ」と答える。そうして一晩。
 一晩が二晩になり。
 二晩が三晩になり。
 三晩が一週間になり。
 もう数えていない。こいつは俺の隣で眠る。普通より大きいサイズのベッドだがそれでも男二人には狭い。それでも俺は不思議と悪い気がしなかった。最近ではこいつは何も訊かずに寝てしまう。俺がまだ床に座ってヴィデオを観ているのに。
 すぐ上のベッドから微かな寝息が聞こえだす。やれやれ、と思いながら俺は起き上がり、ベッドに転がるアバッキオの両肩の上に両手をつき、上から覗き込むと目を開けたりする。開けないこともある。
 息をしろ。
 朝は俺の横で、時々床で、丸くなって寝ているこいつの銀の髪が零れた泉のように眩しい。叩き起こして顔を洗わせ、昨日洗っておいた服を放り投げ、コーヒーを飲ませて眩しがるのを外に押し出し向かいのバールで朝飯を食う。
 新しいな、と俺は思った。こんな生活は新しい。
 同時に懐かしいな、とも俺は思った。こんな生活はしたことがないのに。他人の匂いが自分の家の匂いになってしまった。
 良いんだ勝手にいたいだけいればいい。勝手に俺のベッドで寝ればいい、と俺はこいつの横で思う。――但しその息を止めるなと。息をしろ、そして朝になれば確かに目を覚ませ。

 アバッキオが俺と同時刻に目を覚ましているだけではなくて、ダイニングのテーブルにいい加減だがカトラリーのセッティングまでしてあるから、起き上がって行って皺のないテーブルクロスを撫でて俺は微笑んだ。
「で、何だ。飯でも食おうっていうのか?」
「そうだよ」とアバッキオは大真面目に答える。「誕生日だからな。何か旨い昼飯を食うんだ」
「…お前に何か作れるのか」
「作れねえよ。「ラ・パットーラ」から何か取ろうと思って」
「…「ラ・パットーラ」がケータリングをやってるなんて話は初耳だが?」
「ごたくは言わせねえ。あそこはうちのシマだろうが」
「オレが作る」
 ああこいつが見ている俺の顔はいつもと変わらず眉ひとつ動いていないだろう。でもさっき飲み込んだ陽光と葡萄の香りが喉を縛って俺は少し苦しいのだ。そして眩しいのだ。喉の奥深くが妙に温かいから。
「何でだよ。あんたの誕生日だろうが。それじゃいつもと変わんねえだろ」
「悪いが料理は得意だ」
「…よく知ってる」
「いいんだオレが作るんだ。何か気合い入れて料理でも作りたい気分なんだ」
「気合入れると何作るんだよ」
「手長海老」と俺は思いつくまま言った。昼の光が身体を内側から軽くしている。「ジェノヴァ・ソースのリングイネ。ボッタルガのカッペリーニ」
「凄えな」
「凄いだろ」

 俺たちにはいくつかの共通点がある。例えば、俺たちはごく稀にしか赤ワインは飲まない。
「血みてえだから」とあいつが言った。
「血みたいだから」と一呼吸遅れて俺が言った。
 こいつが浴びたのが、白ワインで、よかった。
「ああ畜生」とアバッキオは漸く濡れて光る空のグラスを二つ、手から離してキッチンカウンターの上に置き、手から滴を払って落とした。「極上のシャルドネだったんだぞ」
「「アメリカン・サイコ」みたいなこと言うな」と言って俺は笑った。
「何だよそれ」
「B級のアメリカ映画だよ。主人公の男は金と地位があり余ってる若いナルシストなんだ。そいつが「極上のシャルドネなんだ」と言いながらワインに薬を混ぜて、女を眠らせておいて切り刻んで殺す。膚の白い、長いブロンドのゴージャスな女ばかり次々に」
「下らねえ」
「ああ下らない。その上夢オチで、結局何もかも主人公の妄想で夢だったんだ。主人公は次第に自分が犯した殺戮でパニックになっていくのに、実際には何も起こってなくてさ」
「どうしようもねえな」
 濡れた髪と服を顔をしかめて払っているアバッキオの長い睫毛の下から零れるのは陽光、集団行動のできないこの男のきつい眉根の下の寂しい瞳に籠もるものは陽光、氷のように冷たい瞳、濡れて陽だまりのように光るプラチナブロンド、大股で近づいて行ってその両肩の上、壁に手をついて額を合わせ、瞳を合わせた。
「おまえを殺す」
 一言言って思い切り力を込めて肩を突き飛ばす。その下から俺の両腕に食い込んだ長い指の力、本気、服の上から肉を破って痕を残すほど、押し合った筋肉が軋むほど、本気で、俺たちはどちらも動かず踏みとどまった。
 身体から力を抜かずにもう一度額を合わせる。
「俺が冗談を言うとは思わなかったか」
交じり合った黒髪と銀髪の上からあいつの瞳を射る。
射られたその瞳が氷のように光る。
「いや思うさ」
「ふっ」
 と俺は息をついて力を抜き、アバッキオの肩を離してその上に倒れこむようにもたれかかった。喉の底から温かい笑いがこみあげてくる。鼻先にからみつく冷たい髪ははたで見るよりぐっしょりと濡れてあられもないような甘いアルコールの香りがする。「おい」
 俺はその中で言うと背筋をもとどおりに伸ばし、呆気に取られているアバッキオに鼻先でバスルームの方向を指した。
「こいよ洗ってやる」
「はあ?」
「洗ってやりたい気分なんだ」
 そのままかれの濡れた襟首をつかまえると有無を言わさずバスルームへ引っ張っていく。
「おい待てよ。なんであんたがオレの髪洗うんだよ」
「文句言うな。誕生日だ」

 良いんだいたいだけいればいい。俺の横で眠ればいい。但しお前がいるというのなら、俺はお前に言い続けるだろう。終わることなく、夜も昼も。横で眠りながらも。
 息をしろと。
 その息を止めるなと。













 +後記+
 発表直前だったのに(だからこそか)突然書いてしまった文。幹部のお誕生日が近いことに大学図書館で鬱々としているときに気付き、湧き起こる妄想を抑えきれずに自分につっこみながらもメモっていたわたし。はじめ「白ワインをひっくりかえして、浴びる、プラチナブロンドが」という断片のイメージだけが鮮明にあって(でもいつもそうかもしれない)書き出したら何だかその時ずーっとかけていたCDの影響が結構出ているようです(笑。タイトルとかにね)基本的に書きながら音楽が聴けない人間なので、年月かけて馴染んだものじゃないとかけられないです。
「アメリカン・サイコ」はわたしはB級じゃないとは思ってますが。B級と形容されるB級じゃなさなので、あまり使い古された意味じゃなく「笑えます」。オープニングが文句なしに大好き。大好きとか言えるのはオープニングだけだけど。ところでファイルをゆずりさんに送る直前になってすごいことに気付いてしまって、さすがにちょっと黙っているのは罪なので、告白しなければいけません。これ2000年の映画だった。もう見たばっか、ってことで。イタリアの公開いつだったかわからないよー。すみません。ホントにすみませんです。ああ……




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