漁師の息子
☆………彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに………☆ (マタイ4.18-20)
その男は最後の喧嘩相手を殴り倒すと、ゆっくりとのけぞるように自分も倒れた。夜明けの弱々しい星の光を透かしてスローモーションのように、白金いろの髪が空しく宙に舞った。銀の粉のけぶる残像を引いて。それはまるで……
俺はすぐに駆け寄って担ぎ起こした。何も考えなかった。
幹部のポルポからチーム結成の許可を貰った次の日に、最初に誰かいた方が便利だろうということで、組織が拾ったばかりのパンナコッタ・フーゴが俺の一人目の部下として廻されてきた。目ばかりやたら据わっているが四つ下の、まだ背丈も伸びきらない華奢な子供で見ると否応なしに、自分がこの世界に入った時のことを思い出した。実際、そんな配慮だか思惑だかで俺のところに廻されてきたんだろう。かなり扱いづらいから注意して掛かるようにということだったし、上が送って寄越したかれのまだ寡い人生のプロフィールをざっと見て、俺も簡単にはいかないだろうと思ったが、開けてみるとこれほど使いやすい部下はなかった。年のわりに理性が勝ちすぎているし、それでいて性根が曲がっていない。常に空恐ろしいくらい落ち着いていて言外のことまですぐに理解する。微笑も敬語も完璧に使える。調書にあったように暴走する気配など一片も見えない。あまり不思議に思ったから、暫く経ってから直接訊いてみた。
するとかれはひどく聡明そうに微笑んでこう言ったのだ。
「僕でも相手が誰かくらいは分かるんですよ。」
暫くしてそのフーゴがナランチャを拾ってきた。
文字通り拾ってきた。かれがボロボロに汚れた少年を俺の前に連れて来た時、俺はこの有能な部下の上気した頬と、上ずった声と真剣な目、そして一つのことを全く初めて発見して驚いた。
呼吸が乱れている。
それからというものかれはこの自分より一つ年上の、身体以外は幾つも年下のような元気な少年の世話をうるさくやいてやる。勉強を教える。逆上して怒鳴り散らす。取っ組み合いのケンカをする。突如として新しい日常になったその騒がしさを扉一つ向こうの隣室に聴きながら、俺は何だか妙に納得する。
成程ね。
それからもう暫くして今度は俺が部下を拾った。
文字通り拾った。
俺はすぐに駆け寄ってかれを担ぎ起こした。何も考えなかった。ぐったりと俺の顎の下に押しつけられた頭の髪は冷たく柔らかで、想像の中の北国の雪のように銀白に光り、散々に乱れて踏みつけられたかというほどに汚れていた。酒臭い。それ以上に怪我をしているのか血の匂いがする。裂けた上着を開いてみると案の定擦り傷や切り傷がそこらじゅうについている。髪をかきあげると頬にもある。北欧系なのか、この国には珍しいプラチナブロンドは掬う俺の指の間を水のように滑った。そこも切っているのだろうか、唇が触れれば色がつきそうに紅い。肌に生きものの温かみがなくぞっとするほど白い。担ぎ上げると長身の割には軽い。腰が女の様に細い。これでよく四人も五人も一遍に相手にして負かしたものだ。
「……」
唇が僅かに動く。紅が滴るように。四肢の力を失っただけで、かれにはまだ意識があるようだった。
「何だてめえ」銀糸の奥から、押し殺し凄むような低音。
「オレと来い」と答えた。
「こいつをチームに入れる」
呼ばれて部屋に入ってきたフーゴとナランチャは、椅子に沈み込むように座っているこの派手で薄汚れた男を無言で眺めた。
あきらかに二人とも何かを思い出しているようだった。
それからフーゴが俺を見た。ごく短く、僅かに視線を動かして、しかしまっすぐ俺の目に照準を合わせて。それを小さな火花の爆ぜるように感じたが、返さずに口を開いた。
「名前はレオーネ・アバッキオ。歳は、」と言ってから訊いていなかったことに気づく。
「幾つだ」
「19」とアバッキオは俯いたまま長い前髪のなかから答えた。
「へえ、それじゃあ、ブチャラティと同い年だね!」ナランチャが明るい声を上げる。
「さあ、もういいでしょうナランチャ」押しかぶせるようにフーゴが引き取る。「アバッキオは休息が必要なようですよ。それに続きをやらなきゃ。まだ半分も解いてないんですからね。」
そう言ってナランチャの肩を押して回れ右をさせる。出て行き際に有能な部下はまたちらりと俺を見た。ごく短く、しかし眼差しの精確さは星のように光る。鋭いが温かな光。唇の端が僅かに上がったように見えた。技巧でないときはこんなふうに微笑むのかと思った。声をつくらない唇のかたち、
成程ね?
「今のがオレのチームだ。メンバーは適当に増やせと上から言われてる。」
「子供じゃねえか」とアバッキオは初めて、顔に乱れて被さった長い前髪の中からやや重たげに眼差しを上げた。
「主観の問題だ。この世界の外にしか子供はいない。シャワー使うか」
かれはそれには答えなかった。今度は線の細い顎を心持ち上げる。煩そうに僅かに頭を振り、頬から汚れた髪を払う。揺れる銀糸の繊い光と乾いた泥が散る奥から、色の薄いブルーアイズがはっきりと表れ出て俺の顔を射た。
「あんたちっともギャングみたいに見えねえな」脆い刃物のような視線は顔の中心からずれて頬、さらに斜め下、やがて俺の肩の奥あたりでちりと閃く。
「主観の問題だと言ったろう」
「ガキみたいに真っ黒で綺麗な髪だ」
言いながら、無意識にかもう一度顔にかかる自分の髪を掻きあげる、その細く骨ばった長い指も乾いた泥や煤で汚れて、汚れの隙間から雪花石膏の肌の色が目を射て白い。髪はもとよりめちゃくちゃに乱れて汚れている。けれど埃の下からプラチナブロンドが冷たい水流のように光る。そうだこれはまるで……。俺はふと唇が緩んで微笑んだ。
「お前の髪こそ」
子供時代? そんな話は今まで誰にもしなかったが。
「ガキの頃聖堂で見た絵の大天使そっくりだよ」
「はっ!」
途端にアバッキオは背を折って咳き込むように笑う。
「笑うな」
けれどそれで本当に止めたから驚いた。腕を抱き、背を折ったまま歪んだ口もとを常の冷たい薄さに戻し、目を上げてこちらを見た。上気の色だけ唇にいっそう濃い紅になって残っている。驚いた俺は短い間そのままかれを見つめた。ふと眼差しの、触れれば切れるような鋭さを落として目を伏せる。長い睫毛が寂しそうに残る。ふたたび流れ落ちて両頬を覆った細い髪の中からかれは落ち着いた声で言った。
「……前科持ちでこんなに薄汚れた天使がいるかよ」
「当然だ」
「罪も汚れも知らねえから天使って言うんじゃないのか」
「罪も汚れも知らなければ人間を愛せないだろう」
口に出せば歯の浮くような言葉だが、思いつきで言ったわけではなかった。今まで声にしなかっただけだ。安っぽいその響きではなくて、俺は口をついて出たことの方に驚いていた。アバッキオを見ると、やはり少し驚いたように黙って俺を見ている。瞳を凍りついたように丸くして、瞳の空色が心なしか濃くなったように見える。
(こいつ、聞いている、)
そう思ってふたたび軽い驚きがあり、俺は俺にぴたりと向けられた、長い睫毛の中の遠く澄んだ空色を覗き込んだ。「おまえ、」
「ガキの頃は毎週日曜日に教会に行ってたクチだろう」
「ああ」とまた痛々しく紅い唇が歪む。「それどころか堅信礼まで受けてるぜ」
「笑うなと言ったろ、天使」
「ふざけんな」、そう予想した反応はしかし来なかった。アバッキオは再びすっと黙ったのである。攻撃的な目の光も。俺はその沈黙した水のような眼差しに吸い込まれるような錯覚を覚えた。荒れてささくれて血を流して、錆びついて閉じているのに、その両の目からは青い空が洩れている。手を掛ければ開きそうだ。こいつ、
こいつは、どういう奴なんだ?――そう問うたときには朧に掴みかけている。確信に近く、確信は期待に近く、しかし朧はまた朧である。
「オレは堅信礼の年にはもうそれどころじゃなかったが、まあ同じだ。親父と二人で必ず日曜朝のミサに行った。――オレは漁師の息子だ」
「マジかよ」
「信じないか」
「いや信じる」
俺は思わずもう一度アバッキオの顔に向き直った。汚れた銀糸の間から、空色の目が睨むように閃いてこちらを見ている。
「あんたはウソはつかねえ。そのくらいのことはわかる」
そう言った、男にしてはやけに紅い唇を数秒間見つめた。天使。あの、故郷の小さな聖堂の天で歌う。サンクトゥス! 聖なるかな! 村人たちの合唱はばらばらでちっとも揃わないが、その歌は天に届く。――サンクトゥス! そして潮が香る。
俺は息を一つ大きく吸った。
そしてゆっくりと吐いた。目の前の男に向かって言った。「十二弟子の三分の一は漁師の息子だ。」
「そしてあの神の子という奴は大工の息子だった。そうして神の息子で大工の息子は湖に行って、そこで網を繕ってる漁師の息子に自分について来いと言ったんだ。漁師の息子にな。ガキの頃親父が読んで聞かせてくれた聖書はもう大半忘れてしまったが、その話だけはまだよく覚えてる。そこの文句はこう言うんだ。――「二人はすぐに網を捨てて従った。」
それがオレの一番好きな話だった。二人はすぐに網を捨てて従った。やつらにはそれができた。簡単にできることじゃない。神の子にはそれが分かってたんだ。大工の息子にはな。」
親父は現在の俺のことを何も知らない。何処にいてどんな仕事をしているのかも。それでも俺はこの話を話す。この目の前の傷だらけのひどく薄汚れた男に、さっき会ったばかりの、故郷の聖堂の天使に似ているこいつに話している。そうして話しながら漠然と考える。またいつか話すかもしれない。何度でも話すかもしれない。
「教会はもう遠い場所になったが、その話はまだ遠くない。オレはギャングだが、少しも遠くない。」
アバッキオは真剣に聞いていた。切り傷や擦り傷に泥と赤い血を滲ませて、所々汚れて裂けたシャツと、雪花石膏の肌と、乱れた伸び放題の銀の髪の奥から目を光らせて、睨むように、その瞳の薄い色を焼きつけるように俺を見ていた。俺が言葉を切って口をつぐむと、張りつめていた視線は突然ほどけて、一瞬迷うような、放心するようなあどけない表情を見せる。もう一度俺を見る。俺が黙って見返すと、かれはいきなり立ち上がった。
「シャワー使わせてもらうぜ。」
「右奥の扉がバスルームだ」とオレは言った。「着替えは適当に用意しておく。オレので着られないこともないだろう。それから明日は幹部に挨拶に行かなきゃあならないからそのつもりでいろ。おまえ一人でだ」
「挨拶?」アバッキオは片眉を上げた。「挨拶って、それだけじゃねえだろうよ」
「それだけじゃない」
「おいおい」そう言ってかれは初めて思い切り顔を上げ、少しのけぞるように上体を反らして笑った。銀の髪が、白い石のような頬が光を孕んで流した。
それは美しかった。
「構わねえ。何だって、死ぬんだって全然怖くねえよ」
「おまえは死なない。そのくらいのことはわかる。」
「随分断言するじゃねえか」
「お互い様だろ」
答えずに彼は背中を返し、バスルームのドアノブに手を掛ける。
「鋏を借りたい」
「何をするんだ」
「髪を切る」
「切らなくていい」と俺は言った。
アバッキオはドアを開けかけたところで立ち止まると、プラチナブロンドの奥から振り返って俺を見た。
「――ああ、そうか。」と言った。
ボロボロに汚れた天使はドアの向こうに消えた。遠くない、と俺はもう一度思った。
(それでも俺は道を逸れてはいない。)
拳を握り、唇に押しつける。願うように強く思う。ドアの向こうで、温かい水音がしはじめる。
後記。
このあたりの話の草案はほかにもヴァリエーションがあるのですが、邂逅の話を妄想していたら何か幹部は漁師の息子なんだよね、お父さん信心深かったんだろうな、オイ信心深い漁師かよ、そうだよ、とそっちに引っ張られて違う話が一晩で上がってしまいました。イエ真面目にこのあたりにはこれからもトライするであろう、いま引っかかっているネタですが。オリジナルでも。イタリアは総本山だし保守的なカトリック圏という印象があるけれど、イタリアの田舎というと俄然アシジのフランチェスコの方を想起してしまいます(あれは山か)。そっちでしょうそっちでしょうよ。もーのみなこぞりてー♪、とかブラーザーサーン、シースタームーン♪とかが(レヴェル違いすぎる引用。)流れてきちゃいます。
漁師のふたりといえば、「トム・ソーヤの冒険」(だったと思う)の冒頭のほうで、トムが教会学校で「イエスさまの最初のお弟子になったのは誰と誰でしょう?」と指されて、「ダビデとゴリアテ」(凄ぇ。)と言ってたなぁと××年ぶりくらいの思い出し笑いをしました。
それとわたしはアバッキオや幹部のようにはフーゴというキャラクター自体への思い入れがないのですが、書いてみて気付くことは、どうも書き手に一番近い視点人物として設定する傾向にあるということです。何か出て来て何か見てるの。何か面白いですフーゴ。今度そういう話もやろうと思います。無駄に長くて失礼をば。