桜桃のなる木、満開の下
春は喧騒と新しさと塞いだ気分に満ちていて、空を見上げることはできず、それは桜が邪魔するからで、雨のように太陽の光を透かしてぼそぼそと降ってきた。転校してはじめて春を迎える学校には桜の木がありすぎた。新学期最初の一週間でもう一生分くらいは堪能した気分だし、すっかりありがたみも薄れるみたいだ。薄紅と呼ぶにはふさわしくない、アイスピンクの大量の花群は偉そうで、暴力的に祝福でもされるみたいだ、いつだって特別行き先のない僕は意味もなく苛々して、苛々するから桜の木の下で彼を待ってみたりしていた。
前の学校にもむろんおきまりに桜の木はあり。そしてむろんきれいはきれいなのであって。一人で(一人だった)ほかにすることもないのでよく春は側に行って眺めた。がさがさの樹皮に顔を擦りつけてすりむいた。僕の愛も(ひどく概念的だったから愛とよぶのだ)漠然としすぎて植物に伝わるわけはなかったが癪だった。薄い花弁の雨があっというまに本物の雨に変わって、桜の木が校庭を統べていたみたいだったのがどこに桜の木なんかあるのかわからないようになって、そしてつかみどころのない五月はあっというまに去り、あと十一か月の間確実に戻ってこないとやはり漠然と思ったのだった。
違う桜の木の下で嘗てとは違うことをしながら思うことは。
季節とは戻ってきたり繰り返したりするものではないということ。
変わってるって何だろう?
「確か「魔女ナントカとわたし」というタイトルだったと思うんだけどね」
「…何がだ」
「ああご免。それは小学校の時図書室で借りた翻訳児童文学のタイトルで。ナントカというのが魔女の名前だけどとにかくカタカナの女の子の名前でそれは忘れちゃったんだ。とにかく、ナントカという友達の女の子は魔女で主人公は魔女じゃない。」
「おう」
「で、おきまりに主人公は魔女ナントカちゃんにふりまわされながらも惹かれているわけだ。ナントカちゃんは乱暴で無謀ででも魅力的なタイプの子供なんだけど、ある日好きな男の子ができて、これまたおきまりに突然おとなしくなってしまう」
「定番だな。魔法が使えないってやつか」
「そう。でもその男の子に惚れた理由っていうのがさ。「…彼、わたしにむかって、君ってすごく変わってるよね、って言ったの。…ねえ、変わってる、っていうのは魔女にとって最高の褒め言葉なのよ!」それを聞いて主人公は悩むんだ。はたして、変わってる、って言葉が普通は褒め言葉でもなんでもないということを教えるべきかどうかってね。」
「またひどい話だな」
「ああひどい話さ」
僕は何だかひどく満足して横を行く彼の大きな肩に体当たりでもしたかった。何か好きなものを突然買って貰えた子供のように。それが昨日で、――桜はまだいっこうに散らない。
そんなことを突然思い出したのはこう聞かれたからだ。
「女と付き合いたいとか、思わないわけ?」
そんなミもフタもないことを、羨ましいくらい単刀直入に正面から訊いてくれるのは有り難いくらいなんだ、それっきりであとになにもないからね。この学校で僕の位相が以前と異なり、周囲も少し違うとしたらそういうことだ。それはここにいない一人の人間の影響の余波であるわけで。ただし単刀直入に訊かれなれていないから滑稽なくらい構えて答えてしまう。この声は誰のだ。
「別に思わないし、……そんな物好きにだって需要はないと思うよ」
オイその声は誰のだ、と彼なら仏頂面して堂々からかいかねないが、相手は別に仲が良くもないクラスメイト達だから判で押したみたいな反応をする。笑ってくれるのは、また有り難い。
「うっわ言ってんよこいつ。マジむかつく」
「お前健康? 変わってるよなホントに」
六時間目は図書室でグループ作業だった。四月のこんなしょっぱなからしかも現代文で、グループ作業なんかをさせる自認ベテラン教師の自信が憎らしい。わざとらしく肩をすくめてみせたのは、ほっとけば一人で突っ立っているかもしれない僕をグループに誘った彼らに敬意を表して。
人から変わってると言われるたびに、実際僕は僕の思考と感性の俗っぽさを隅から隅までよく知っているので正直なところ、気持ちが悪くて仕方ない。慣れたって気持ちが悪いものは悪い。変わってるって、一体なんだよ。なにがどういうふうに変わってるんだよ。子供の頃、止むを得なくてとりあえず一歩踏み出せばいつもそれが返って来た。「花京院君って変わってるよ。」それでは変わっていない僕は何なのだ? 子供心にひやりとしたし、変わっているなんて少しも思えなかった。笑ってしまうほど一般的なのに。怖い言葉。
「でもさー、いっくらお前だっていないよりはカノジョいたほうがいいだろ」
「――カレシがいるよりは楽だと思うかい?」
こういう煮え切らない冗談(内心、冗談にもならない冗談)は言うべきではないのかな。一瞬、そう思ったけれど。だからうっかり口が滑る。
僕は女の子を好きになったことがない。あったのは世界への謎と反語だけでそんな暇がなかったのだ。そうして僕の視界で世界がぐるりと、輪郭以外のすべての様相を変えてからもやはりそんな暇はなかったのだ。そのとき既に僕には人生最初の友人が。「友人」という言葉にいちいちつっかからざるを得ないほどに。
まあ「変わっている同級生」の負うべきロール内で想定されるせりふじゃあないなと、自分でも思う。こんな思考形態は取り出すのが嫌なほど懐かしい。けれどあの数週間で、ナルシシズムと負の執着はいざとなればどんなに簡単に放り出してしまえるかを知った。恐ろしいほどたくさんの感情を手に入れた。たくさん傷ついて血を流して疲れた。過去形で言うのは、あのときから一秒前は既に現在ではない過去に過ぎなくなっているからだ。恋愛がナルシシズムの産物だとするならこれはそうじゃない。そうじゃなくても名前がなくともどうしようもないことも知っている。早く授業時間が終りますように。
で。先程の僕の発言でテーブルに座っていた面子は言葉を失っている。あああ僕だって別に何か主張したくて言ったわけじゃあない。ただ本当はじりじりしているんだ、窓の外で桜が降っている。あと少しで授業なんか終わる。
「…男に惚れる方が大変なのかよ?」
えらく親身に話しかけてくるのは、いつもそうであるから結果的に、僕がクラスで一番よく話す鏑木という生徒だ。彼はどうやら、僕にこういう、「変わった」ことを言わせるのが好きなようだったから、こちらの自意識に飛び火しない程度に期待に沿ってやりもする。
「大変じゃないか?」
と微笑んで言うと、彼は唇の端を引いてやはりいたずらっぽく笑う。きっとこういうことが彼にとっては「変わっていて」魅力的なのだ。百歩譲れば可愛いと思えなくもないかな、と思ったところで自分に嫌気がさした。
そうしたらもうこんなふうにでも言うしかない。
――変わってるって変わってる言葉だね。
馬鹿みたいだ。
「またひどい話だな」
「ああひどい話さ」
「変わってるって言葉は使い方がよくわからねえ」
そう承太郎が言ったことを思い出した。承太郎。承太郎。承太郎。名前だけ、声に出さずに口の中で繰り返してみる。この単語だってよくわからないようでよっぽどはっきりしている。人の名前なんか僕は滅多に呼ばない。彼だってそんなことは知っている。
「…あれ、今、なにか言った?」
勘だけは良い鏑木が振り返る。
「なんでもないよ」
彼だってそんなことは知っていると僕は思っている。
いつのまにかテーブルを囲んだチームは次の話題に移っていて、「変わった」発言をそれ以上詮索される恐れもなさそうだった。僕は彼らと同じくまだ白紙の課題用紙を取り上げると、今日十回目くらいのため息をついてまた机の上に落とした。もちろん、そんなことが原因じゃない。
ため息をつくのって、無意識に自分が辛いことを、他人に知ってほしいって思ってるからなんだって。隣の席の女子生徒が授業中に小声でそう言ってよこしたけれど、さっぱりしていて嫌味がなかったから、そうかもしれないね、と答えておいた。それは多分一般的に真実なんだろう。けれど僕の場合は違う。照準がもう合いすぎている。早く授業が終わりますように。
とりあえずこの息苦しくも親切なチームを離れて、一員のロールを果すために資料でも集めてこようかと思い、僕は席を立って書架へ行った。どうせ一向にやる気がわかないのだからさっさと片付けよう。一番上の棚の本を取ろうとした。ところが手が滑って、落とした。落ちた本が足を直撃した。痛い。あたりを見渡すと、誰も、気付いてはいなかった。僕はふとおかしくなった。笑いそうになって止めた。
そのとたんに授業終了のベルが鳴った。
生徒たちが立ち上がり、ざわざわと図書室を出て行く。授業終了。ああそうだ、ずっと待っていたんだっけ。承太郎。足にはまだ鈍い痛みが残っていた。足元に転がった本を元に戻そうとして上体を屈めたとき、僕はまたなにか無性におかしさを感じた。
変わってるだって。ひどい話さ。そう思うだろう?
違う桜の木の下で嘗てとは違うことをしながら思うことは。
季節とは戻ってきたり繰り返したりするものではないということ。
――そうして今日もまた、二度と廻り来ない時間を一足ずつ踏んで。桜の花の満開の下、昇降口を出てくる君を待つ自分を思い描いた。曖昧さはもう、少しもない。
+後記+
参加しております、750.様主催「承花部」で2005年春開催されました、「春の承花祭り」にふつつかながら奉納させていただいた文であります。テーマが「学校」でしたー!ステキださすが承花だ!と、参加出来てとても嬉しかったのですが、やはり果てしなく地味にしかなりようのないわたしの承花です。しかし書きながらさすがに高校の図書室とかを思い出しました。ちなみにクラスメイトの「鏑木」というのは三島由紀夫の『禁色』に出てくるホモ伯爵の名前からです。唐突に。これも高校時代ドキドキしながら読んでました。あーあ。