渇く冬
こんな夢を見た。
ジョースターさんもアブドゥルさんもポルナレフもイギーもみんないて何故かスキーに来ている。主に日本語を使っているようなので日本のスキー場だろう。新幹線かなんかで皆で行ったんだろう。和気藹々と。ホリィさんまで一緒なのだ。してみれば承太郎も一緒でないはずはなく、いや無論一緒にいて乗り物の隣に座っていたその温度の感覚が僕の脇腹のあたりに残っている。
それなのになぜ姿だけ見えないんだ?
スキーをしていないのは僕だけで、それはあの大怪我から生還した同じ年でまだ体力がなくておまけに風邪をひいて諦めたのだ。それなら何故くっついて来たんだろうな? さあそんなの決まってる。死の淵から引き戻されて来て以来発想の方法が少し変わった。世界は決して僕の横でつかず離れずに立っている他者じゃあない。
皆スキーに行ってしまった。僕は笑顔で楽しんできなよと言った。そうして一人でロビーのカフェに座ったあたりから僕が僕を見つめ出す。おいおい懐かしい感覚だ。花京院典明はさ、と僕は考える。花京院典明がね、とどこかでやはり僕が答える。一人でカフェの椅子に座って外を見ている。
さあ懐かしい感覚だ。
とても寒い朝だ。
厚いガラスを一枚隔てた向こうでは雪の真っ白な乱暴な粉が天空から地へ、また西から東へ、ひどく雑な嵐になってそこらじゅうを攪拌しているのだ。世界はすでに直線に乳白であり、その黄金律にそこかしこで無限にからみつく円運動は、たおやかな構造の隅々まで露になってしまった寂しい裸のスキー場の木々を混乱させてしかたがない。カフェの南側は一面大きなガラス張りになっている。そうして窓の隅は安息を許さず吹きつける、白い半固体のものでびしょびしょに凍りついていて、白の地獄なんかガラスの箱にすっかり囲いこんで観賞用にでもしてしまったみたいだ。それは贅沢な眺めだった。花京院典明は退屈だった。カフェの窓の真向かいの、四つ椅子のある安っぽい丸テーブルに一人で腰掛けて、ガラスの送ってよこす冷気が寒くて仕方ないので白熊のように厚着して、深く沈んだブラックコーヒーの表面を毎分一回義務のようにしずかに吹くのだった。花京院典明は猫舌もはなはだしいので、最初の一口は苦くて悪くなかったけれど、舌は不意打ちの火傷をした。
白い地獄の底では花京院の仲間たちが、あの灼熱の道行きで仲間だったものたちが、おそらく談笑しながら並んでリフトの順番を待っているのだ。ここから見える無数のスキーウェアの色彩は気が狂ったみたいだった。裸の木々が苛々している。花京院は熱を出していたのでその狂騒に加われずにいる。お陰で朝起きて、ご飯を食べて、眠って昨日一日がおわった。…それだけじゃないだろう?……それだけじゃないけれど。
カフェのガラスにはいよいよみみず腫れのように楕円形のびしょびしょの雨雪が吸いついていて、それをこちら側から眺めるのは贅沢だと思う。わかりやすい失墜の形のようにも思う。コーヒーは不味くはないのになぜか気持ちが悪くなる。違う味。毒が入っているのかもしれないと子供っぽいのを承知で一瞬考えてみる。
風邪をおして僕がついて来たのに目的がないわけではなかった、と花京院典明は考える。それどころか昨日も今日も、視界の潤む目と薄い頬とを熱に溶かして清冽な白い地獄を眺めては機会を狙っていさえしたかもしれないとも。
……冬が来ないうちに塩坑の暗くて細い穴の中に、手ごろな大きさの小枝を投げ込んでみるのだ。そうして二週間か三週間たって丁度良い頃合いになったら小枝を拾いにゆくのだ。…そう、昔何かの外国の本で読んだと思ったとたん花京院の懐に冷たい小枝が入っている。塩坑から取り出された小枝はダイアモンドの結晶で飾られている。手に持って少し振るとイアリングのようにそこかしこにぶら下がったダイアモンドがちらちら揺れて人々はそれをうっとりと眺める。誰だってダイアモンドが綺麗な六角形の塩の結晶でしかないことは思い出さなくなる。小枝はもう小枝ではない。
……そんなふうにはいかない、と花京院典明は考える。僕だって馬鹿じゃあない。
懐で温めたり愛撫しているうちに、塩の小枝は少しずつ変容してゆくのだ。それはときどき花京院の胸の冷たさを移して凍りつかせたり、また逆にルシフェルの腹の中心点のように反転させて熱くて仕方がなくてついに小爆発を起こさせたりもする。塩でもダイアモンドでもどっちだって構わない、熱ければ溶けるので、ふと懐から取り出して見るとそれは思った通りに変容している。光っていたものは溶けて小枝の皮に染み込んで蛋白石の薄いアイシングに取り巻かれて砂糖菓子のように見える。花京院はこのことを前から知っていたような気がした。これもまた小枝ではない。
もうこれまで、と覚悟をかためて、花京院典明は深い淵へと飛び降りたのだ。そうして気付くとここに座って外を見ている。見るのではなく探している。これはもう何遍やっても無駄に違いないと彼は思った。そのくせ諦める気はしなかった。そうしてぼんやり覚悟を固めていた数分の間、彼は熱すぎるコーヒーを吹くのを忘れていたので、また変に行儀良く息を吹きつけると深い闇色の返してよこす温かみはふと友好的になったように思われる。
いつだって覚悟は出来ていると思った。懐から小枝を取り出すやいなやざぶりとコーヒーカップに投げ入れた。長い指がカップの中の塩でもダイアモンドでも砂糖菓子でもないものをぐるぐるとかきまわし、そろそろと引き上げてみると、暗い色の雫を滴らせた小枝はやはり滑らかな輝きを失わない。けれど花京院にはいつか裸の小枝と対峙する時もそう遠くはないように感じられた。いつだって覚悟は出来ているしもう余計なものは見ていない。見るのではなく探している。
……いつしかガラスの雨雪はどこかへ消えてなくなってしまい、もはや嵐は情けなく悲しくそろそろと落下してくる雪屑に変わっている。……
そんな夢を見た。
+後記+
これはJOGIO EXPO 2005 in TOKYOで発行した添え物ペーパーに載せていたものです。とにかくあのときは忙しくてバタバタしてて思い至らなかったけれど、そんなのそもそもペーパーとしてどうかという感じですね。書くまでもないですが、小枝云々というのはスタンダール『恋愛論』からの連想であります。タイトルはなぜか松浦理英子「乾く夏」のもじりです。わたしは放っておくとこんなのばかり書いてしまうのですが、いくら辺境サイトとはいえ人に読んでいただくものなのであんまり良くないなあと反省。次は頭を切り替えて五人以上人の出てくる二次創作らしい話を書くことにします。
どうでもいいことですが自分より運動神経のない人を見たことがないと豪語するわたしはもちろん、スキーは直滑降専門です(笑)。それでも高校のときなんかは大勢で夜行バスで行くのが面白くてついて行っていたんですよね。