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トリート




 街をゆき子供の傍を通る時蜜柑の香せり冬がまた来る。
 自分にとっては帰宅して玄関から茶の間を横切る時であったけれど。
 しかしそれが俺にとっても冬の始まりの匂いであったわけで。そんな人間が少なくないからこの歌だって教科書に載ったりする。いつからとは知れず、母親が卓袱台の小籠に山と積み上げる橙色の酸い丸い小さな果。
 その匂いが今年はしない。
 今朝目ざめて2階1Kのがたつく窓を開けた時、蛋白石のような光をおびた、虹灰色に満ちて暗く震える曇り空から水のように流れ込み鼻先をすと刺した、その外気の冷たさと、白く丸くなった息にはっとして、しばらく頬は冷えるにまかせた。
 実家を出て最初の冬が来る。
 どんな冬が来るだろう。

 今から行っていいかと聞くのを途中まで迎えに出ると言うとそれは要らないと言った。どうせ道は一本しかないのだと言えば道は一本しかないんだからねと答えただろう。受話器を置くと狭い部屋のなかをざっと片付けた。歩いて十分もかからない。同じ町内のここと似たような2階建てアパートの2階の1Kにあいつは住んでいる。一人で。どちらが何と言うともなくその距離に住んでいる。
 けれど十分かかる。
 人が来るのに寒すぎるから窓は閉めた。今年一番の暖房を入れるのは勿体無い。身体がふやけてしまうから。呼び鈴は要らない。安普請の階段を上がる靴音で分かるのだ。この世で唯一つの足音。靴は変わっても癖は変わらない。カンカンと外廊下を歩いて来てドアの前で止まる。呼び鈴の音はあまり安っぽい。あいつも使ったことはない。
 こつこつとノックの音。脳裡にえがく、あの指のあの第二関節がグレイの鉄板を叩く、それが今日は僅かにぎこちない。
 立って行って開ける、と、
「……っ、」
 とっさに腕を前に出して払った。それでもその一瞬、額に頬に、肩をそれて浴びバラバラと当たって、玄関に靴の中に流しの隅に落ちるキラキラ光る無数のごく小さな紙包み。色とりどりの。熱帯魚のような星のような。けれども甘い匂い。砂糖と人工的な果物とチョコレートの匂い。
「さすがに吃驚した声一つ上げないか。」
 投げつけた手の持ち主、外気の中で白く曇らせた口許が言う。それから微笑みのかたちに端が引かれる。
「おいなんの真似だ」
「はっ」と右斜め下へ俯いてもういちど笑う。
「さすがに恥ずかしくて言えないよね。Trick or Treat. チョコレートついてるよ」
 そう言って花京院典明は菓子を握りしめていた、今は空いた片手を伸ばして俺のクルーネック・セーターの襟口に指を掛けるとひっかかっていたチョコレートの包みを外した。
「10月31日でハロウィンだからさ。でも片掌ぶんじゃああんまり威力はなかったな」
 見るともう片手には丸いかたちの大きな布包みを提げている。それを大事そうにそろそろと狭い玄関に下ろすと彼は後ろ手にドアを閉めた。白い頬や黒猫の毛のようにしなやかなタートルネック・セーターを着た肩がす、と室内の閉じた闇に落ちた。
「…それは何だ」
「パンプキン・スープ作って来た。あと温めるだけ。パンプキン・パイより好きだろう?」
「そんなに外国の祭りが好きだったとは知らなかった」
「違うよ。何だか今朝起きたら急に寒いからさ」
 包みを解くと本当に両手鍋が出てくる。温度差に白く曇ったガラスの蓋越しに柔らかな橙が静まっている。火にかけて、キッチンから部屋に入ると花京院は「寒いな」と呟いた。
「暖房入れるか」
「ううん。…冬の匂いがする。冬が来るんだ。寒いのは当たり前だ。」
「お前」
「ん?」
 振り向いた頬に少し赤みが戻っている。脳裡に逆行する、幾千回目に刷り込まれる、あの赤。
「…それで朝起きてスープ作ってたって訳か?」
「そうだよ」
 やがてふつふつと沸く音とコンロの炎熱が、空気を融かして狭い部屋に伝わりはじめる。見えない細い糸の束のように。そしてこれから部屋に満ちるのは、温められ膨らんだ南瓜とミルクの匂い。
 実家を出て最初の冬が来た。
 どんな冬になるだろう。










+後記+
 我ながら地味だなぁ。と苦笑。ハロウィンなのに。季節物というともう承花がやりたくなり、それはやはり日本の四季と日常とに根ざしているからなのでしょうか。でもハロウィンはあまりこの国に浸透してないしどこのどのようなお祭りなのかもいまひとつ謎。去年のこの日は欧州に留学してたけどハの字すらなかったよ? でも毎年ソニプラにはかぼちゃが賑々しくぶら下がるこの時期になるとどこかで仮装パーティやらないかなあなどと漠然と思うのです。ないよ(笑)。高校がやたらと帰国子女の多い学校で、英語の帰国子女クラスで毎年楽しそうにハロウィンをやってたのを羨ましく見てたのです。でも演劇部だったから、朝やる気のない子たちが「何でもいいから衣装貸してよ」と押し寄せてくるんだけど(笑




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