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コーヒー色の救済




「夢見が悪いんだ」
「眠れないのか」
「いやよく眠れるよ。死んだようにね」
「そうか」
 コーヒーを飲もうよ。そう言ったのは僕だ。だけど駅からも、学校からも、即ち僕らのこの街での通常移動線上からも言葉にしない言い訳からもあまり離れない範囲で。なおかつ人通りが適度にあって、つまり騒々しくカラフルな世界に、でも異質で疎遠な世界に、僕らふたりなど嘘みたいに抱き込まれてしまう場所でないといけない。入ったのはここ数年でバクテリアみたいに異常増殖したアメリカのチェーン、コーヒーはまずくないけれどテーブルの間隔は狭くて、横のテーブルにはあまり正視したくないような太腿と変な靴下の女子高生の二人組み、おまけにうるさい。
「でさあ、はァ? みたいな。ふざけんな」
「マッジで。なんでいきなりそういう話になるわけぇ」
 そんな声がノンストップで聞こえていてもいいんだ。195センチの君にこんな軽い店のファンシーな椅子が小さくてもいいんだ。明らかにこんな場所で口にする言葉じゃないだろう。それでも今ここで君にこの話がしたいんだ。君が興味を示さなくても。君に女々しい奴だなと軽い軽蔑を示されても。
「それでね」
「ああ」
「夢見が悪いんだ」
「どんな夢だ」
「繰り返し犯される夢。」
 紺と緑の細いチェックの、柔らかいオーバーシャツの袖を引き上げて頬杖。君の前で頬杖。腕組みをしている君。そのクルーネックの紺のコットンセーター。ここは喫茶店。お仕着せみたいなソウルミュージックが流れる。ソウルは嫌いだ。
「…それで」
「うん」
「眠れないのか」
「すごくよく眠れるよ。」
 同じセットをもう一度。さっき君は同じことを訊いたし、僕は答えたし、そんなこと分かり切っている。君だって分かり切っている。ただのステップだ。ただの順番だ、ただの儀式だ必要なのは。
「…どんなふうに?」
「後ろから。何度も何度も。次第に深くまで。逃げられないんだ。怖い。怖いのに痺れてくる。どれくらい痺れても怖い。」
「相手の顔は見えるのか」
「見えない。逃げようともがいて手足を掴まれるから、手や腕の輪郭くらいはぼんやり見えるのだけれど、あとは闇なんだ。薄らぼんやりした闇。ちょうどこの、」と言って鼻先のカップの中を覗きこむ。向かいには君の前に同じもの。間にはまだかじられない大きなクッキー。シャツの袖は頬杖に鋏んだままで。
「コーヒーみたいな色の」
 覗きこんだ鼻先に熱すぎるコーヒー色の蒸気が当たって少し痛いのだ。僕はまだ顔を上げない。上げたら出来るだけいい顔をして微笑んでやろう。一、
 二、
 三、
 上げた顔の真正面にはじっと僕を見ている承太郎。外したタイミング。外れた微笑。その胸のあたりに落ちる。ものともしない。僕はもういちど俯いた。意図していないくせに射るような瞳は僕の丁度裏返しだ。
「それで」
 と訊いた。
「え?」
「…それで」
「うん」
「いやなのか。」
 僕ははっと顔を上げた。頬骨の辺りがむず痒く熱くなった。右肩がむずむずと動いて慌てて押さえた。僕は手を出して彼の端正な精悍な頬をぱん、と打ちたかった。
 或いは本当の本音でも他愛ない言葉にして言ってしまいたかった。
(大好き、)
 でも口の中だけだ。当然だ。明白だ。
「いやだよ。いやに決まってるじゃない?」
「そうか」
「そうさ」
「…そうだな」
 ああ頷かないでくれ。さすがに恥ずかしいじゃないか? 今夜はもうあんな夢は見ない。見るはずがない。口に閂かけて閉じるのに、勝手にほどけて、勝手に本当の本音でも喋りはじめて周りに聞こえそうで恐ろしい。いや聞いてるはずはないのだが。
「それでさァ俺のこと好き? とか言われて。別にー。フツウー。とかって流したりしてさ」
「べっつにうれしくねーよバカって感じ?」
 僕はコーヒーを啜る。すると君もそうする。僕は頬杖を崩して手を伸ばして大きなクッキーを掴んで齧る。手で割らないで齧る。これはちょっと甘すぎる、と言いながら渡すと一口齧って憮然としている。――ねえ、それは甘かった? それとも?
「ごめん。有難う」
と言う。甘すぎる口から出た言葉でごめん。
「ほら。俺、こんな話できるのは君しかいないし。というかまともに話をできるのは君しかいないし。君にはいい迷惑だと思うけど、でもどうしても誰かに話したかったんだ」
「誰かに?」
「違うよ訂正する。君にだ」
 エンドレスでいい加減なソウルミュージック。漂白剤をかけてやりたいような隣の話し声。コーヒーの匂い。甘いチョコレートクッキーの匂い。僕と君の間の距離はそんなもので一杯で、今少し弱くなっている僕はそんなもので安堵する。本音を言えば、やはり叩いてやりたいさ。頬をね。でもしない。今ここで眠り込んでしまいたい。そう思って思い切り睫毛を上げて君の顔を見た。目が合う。なんだって君はいつもそう僕の顔なんかじっと見ていられるんだ? 承太郎の瞳が少しだけ動く。
「…で、どうするんだ」
「どうするって?」
「夢」
「そうだなあ。」
 僕は腕組みをして少し考えて微笑んだ。
「今夜は立ち上がって戦ってみようかと思うよ」
「出来るならなぜ今夜までやらない」
「いや今夜から出来る気がするんだ。今話したからね」
 さらに言えば。
 今夜はあんな夢なんか見られるわけがないんだ。君に話してしまったからね。そう言ったらきっと憮然として俺は告解師か、とかなんとか言うだろう。でもそうじゃないんだ。
 敢えて言うなら古代王国の神官なんだ。王様なんか飾りなんだ。
 そろそろ熱くないマグカップの中、一杯260円のコーヒーの中に僕を縛った闇がある。僕を甘やかす闇がある。僕の体内を蕩けさせては啜る闇がある。唇をつけて刺激と香りを飲み干す、その目線の先に君がいる。










+後記+
 ものすごく突発的に出来たので即突発的にアップしてしまおうと思いました…。ううむ。承花は今猛烈暗中模索試行錯誤中なのでご勘弁を。…しかし承花は他部を書くときと違う頭を使っている気がします。
 さてわたしは勉強でも創作でもオリジナルでも二次でも、打つ以外のことはほとんど喫茶店でやります。本も読む。しかもお金がないからドトールとかスタバです。でね、本を読もうと思って入ったのに10分でこんなのもはやうちの地元にしかいないだろうというようなお嬢さま方が隣を占めて、(でも実は若ければ何でも可愛いからいいんだと思っているんだけど)くそう負けないわよ、あんたたちのその話し声から何か生んでやるわよという変な意地で走り出した走り書きでありました。うん、日常ってそういうもの。そして日常とは箪笥のようにエロティックであるはずだ。という再認識に落ち着きました。ふふ。



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