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ロゴス熱

「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。」
――ヒトより先に? と僕は先ず疑問に思った。
「万物はことばによって成った。成ったもので、ことばによらずに成ったものはひとつもなかった。」
それから寝転がって少し考えた。
 僕の顎に手を掛ける者がいる。指が伸びて唇をなぞり開かせる。戒めをかけられた筈の僕の舌が僅かに動く。感電したようにびくりと震える。あ。
 そこで跳ね起きた。日付が巡り、うっすらと汗をかいている。真青な窓の外に既に朝の陽が熱い。


真夏は匂う。
 乾いて白く光るアスファルトも、教室の窓ガラスも、窓越しに聞こえてくる真昼の物憂げな車の往来の響きですら匂うのに、それが眩しい光の中、涼しい陰と肌に吸いつく湿気に沈んだだだっぴろい平屋建てならばなおさらだ。表に焼けつく反射を、裏に濃く柔らかい闇を抱いた庭木の葉の一枚一枚は早くも温んだ水飛沫に光る。帰宅するなりホースで打ち水した黒い庭土は霧を上らせて深い呼吸をする。家の内を水平に渡る夏の風が漸く少しだけ涼しくなる。寺社のような木の門をくぐった時、あいつの頬を流れた光る汗の粒も弾けるような夏の匂いがした。
 いくら涼しい顔をしていたって自分と同じ人間なのだから汗ぐらいかくだろう。空条承太郎はホースを握っていないほうの手で額の汗を拭いながら少し変な気がする。暑いから汗をかく。何もすることのない夏の土曜日の昼下がりだからそんなことにも気付く。変な気がする。熾烈な旅は終わって、終わったが自分はあいつといる。するとそんなことにはじめて気付く。
「さて、と、とりあえず冷蔵庫に仕舞ったよ。」
 空条承太郎は振り返る。奥の台所で友人がスーパーのビニール袋を畳んでいるのが見える。茶色がかってくせのある、柔らかい前髪に隠れて顔が見えない。胴が細い。薄い制服のシャツ一枚の下に、まだ大きな恐ろしい傷が生々しく跡を残しているとは思えないほどしなやかな輪郭。しかしシャツの下にそれはある。こいつはそういう奴だと承太郎は思う。
「だけど本っ当に大きな家だね。前に来たときは色々ありすぎて気付かなかったけど。こんなに広い家に普段は2人だけで住んでるの? お父さんはツアー中じゃなくても大抵スタジオ詰めだって言ってたよね? 僕なんか生まれたときからマンション暮らししかしたことないから、気持ちのいいカルチャーショックだよ。不思議なのに心が落ち着くんだ。何だろうねそれ? 二重のエキゾティシズム? 既に乖離した潜在的な民族的感性とでも言うべきなのかな?」
 親父が数年ぶりにアメリカ公演を組み、お袋は帰省がてらついて行った。一緒に来いと言われたけれどジジイの顔は当分見飽きている。飛行機も暫くはごめんだと言って残った。身の回りのことくらい何とかなるし一人で夏休みを過ごすのも悪くない。他に理由が?――あるような気もするがそれははっきりした形を取らない。敢えて言えば期待。漠然とした。思い出せるはずのものを思い出せないようでち、と軽く舌を鳴らす。こんなに暑いのがいけない。
「ああそうだ、承太郎。」
 台所の引き戸から半身をのぞかせて、花京院典明はいつになくしっかりとした口調で彼を呼んだ。承太郎はもう一度振り返る。
「期待しないでね。」
「何だと?」
 思わず聞き返すと花京院は涼しい顔で微笑む。汗などどこへやら。
「確かに僕は両親が共働きで小さいころから週に何度かは必ず料理をしてきたよ。だけどうちの家族は味にはうるさくないし男の子だっていうんできちんと教わったことだってない。一通りはできるけどつまりは簡単なものしか作ったことがないんだ。ホリィさんの料理を基準にしてもらっちゃ困るからね。」そしてもう一度、
「変な期待をしないように。」
「食えりゃあいい。」といつになく抑揚ない声で返す。
「手伝わないの?」
「手伝いが欲しけりゃ手伝うが。」
「じゃあ手伝ってよ。」
 空条承太郎はホースを捨てて台所に歩いて行く。花京院の声が硝子の鈴のように耳の中で残響を鳴らす。匂いのように首に纏いつく。気になるが手で払えない。払う手は声の匂いに、その流れに痺れさせられて動かないのか、それとも自分が払いたくないので動かないのか。とにかく煩くはない。更に言えば心地よい。縁側から伸びる真夏の太陽の熱が炙ると、一層濃く匂い立つその声、声、言葉。
 思えばこれほどの長い時間を――戦いでも旅でもない静かな時間を――家族以外の一人の人間と向き合って過ごしたことはないし、声を聴きつづけていたこともないのだ。
「夏の匂いがする。」
 と耳元で言う。「何が」と見るときゅうりを持っている。
「やっぱり野菜だけは八百屋で買い物して良かった。スーパーにはまっすぐなきゅうりしか売っていないからね。でも僕はこうやって思い切り曲がったきゅうりが好きなんだよ。夏の匂いは曲がったきゅうりからしかしない。まっすぐだったってただ切るときにちょっと便利だというだけだろう? 艶もないし。こっちのほうが綺麗だよ。綺麗じゃない承太郎?」
 それでも幾らなんでも喋りすぎではないか。こいつはこんなに喋る奴だったか? と空条承太郎は答えずに考える。これだけ花のように匂う言葉を絶え間なく流れ出させていたら、息がつまって、酸素が足りなくなって、しまいに顔を赤くして倒れるのではないかと心配になる。心配になってまじまじと顔を見る。はたして赤い。象牙色の冷たい肌の内側から薄紅が染みだしている。日灼けしたのかもしれない。共に灼熱の砂漠も砂埃のインドの路地も通ったが、それでもミルクのように静かで硬質なままでいたこいつの肌は、平和な日本の夏では日に灼けるのかもしれない。
 ――否。相変わらず涼しい顔をしていた。今日の休み時間に通りかかったときだって、この肌は教室の窓から青葉を透いた光を受けて穏やかに冴え返り、周囲には3、4人の男子生徒がいて花京院は微笑んでいた。
(違うクラスに知り合いがいるとこうなるのか)
 と一度思ってそれ以上は考えたことはないが、休み時間に購買部に行くのに、わざわざ一階降りて花京院のクラスの前を通る。かれが学校に転校生として復帰した最初のうちは妙に心配で、様子を見ようと思ったのがいつか習慣になった。見たこともない女どもが騒ぐが仕方ない。
 開け放ってある教室のドアから見る花京院は話していたことがない。話しているのはいつも誰か他の奴で、かれはいつも静かに微笑んでいる。一人自席で読書している日もある。「人付き合いはあまり得意じゃない」「友達は多くない」と聞いていたけれど、新しい環境で特に問題なくやっているように見える。
 ただ話しているのは見たことがない。

「さすがにこれほど主張の強い季節のものを前にすると料理もしたくなるものだよね? 今日招んでくれてよかった。今日は一人と分かっている日ってちっとも料理したくならなくて、いい加減なものを外食して済ませちゃうんだよ。食べてくれる人がいないと不思議に、」
 歩いていって花京院の肩を掴む。とたんに手の中の身体はびくりと大きく震えたので、こちらも驚いて手を離しそうになるが、もう一度力をこめる。
「おい喋りすぎだぞ。大丈夫か。」
「あ。」
 花京院典明は瞳を丸くして口を開いたが、「あ」の形に薄く開けた唇の間からは何も言葉は出てこない。心配になりその無心の瞳の中を覗きこんで、それがあまりに透き通って底なしだから驚いた。引き込まれる! と咄嗟に思って乱暴に視線を外す。
 なんだ、この目は?
「喋りすぎて熱でも出たんじゃねえか。顔が赤いぞ」
 額に手を当てる。野郎の肌じゃないみたいな手触りに背筋がゾクリとする。でも少し熱い。
 当てた手の下の額が動く。いよいよ顔を赤く染めた花京院典明はゆらりと身体をずらすと、承太郎の広い肩の端にその額をこつんとぶつけた。鼻のすぐ下で柔らかい髪とシャンプーの匂いと軽い夏の汗が香る。
「承太郎。」とその姿勢のままで花京院は言った。「君にはまだ言ってなかったと思うけれど。」
「君は僕の、実に人生で一人目の友達なんだよ。」

毎日。めくるめく青く透ける夏の桜葉を貫いて、授業中、教室の窓の向こう、無限の雨になって降り注ぐ夏の陽光に射抜かれて、数日後に迫った夏休みの午睡と軽い汗の予感のする、瑞々しい夏の匂いを呼吸して、毎日。僕は息を詰め、苦しく一つつき、唇に人差し指を押し当てる。
どうしよう。
僕には、友達が一人いる。
どうしよう。利かない空調に汗ばむシャツの下の肌の奥から、胸から腹にかけて残るまだ生々しい傷跡を震わせて、言葉、言葉、言葉、今まで誰にも言わなかった言葉で僕の内側は一杯なのだ。言葉が溢れて体を押し破りそうになる。言葉、言葉、話す相手のない言葉とある言葉は違うのだ。言葉は本来伝達するためのもの。それを閉じ込めるものはヒトの弱さと孤独の他にない。僕の身体は、十七年間かけて言葉で一杯になった。それが今はたった一人のための言葉なのだ。僕には友達がいる。
 人差し指では足りなくなる。手を広げて唇を押さえる。眩暈がする。暑いから? 眩しくて堪らない。口を覆う手に力を込め、少し背を丸めて堪える。
「……院君」
「え?」
 はっとして顔を上げると、隣の席の女生徒が心配そうに小声で聞く。
「花京院君、大丈夫?」
「あ、大丈夫。ありがとう。」
「本当にクーラーの故障何とかして欲しいわよね。頭ボーっとなっちゃう」
 頷いて軽く微笑んで、教科書の上に屈みこむふりをして、静かに瞼を閉じる。
(「初めにことばがあった」)
 そう、今ならよくわかる。
(「ことばによらずに成ったものは何一つなかった」)
 制服の下には熱い肉があるが、肉を捲れば激流の渦を巻く言葉がある。音にならなくたって言葉は言葉なのだ。でも言葉は音になって迸り出るときを待っている。生命になって身体を巡りながら待っている。僕の血は言葉でできている。僕の肉は弾力と厚みとをそなえ、発熱する生きている言葉だ。
 ああ、どうしよう。授業の終わりが待ち遠しい。もう身体が外界に向かう言葉と崩れて溢れてしまう、溢れて止まらないじゃないか。零れたらどうしよう。一つもなくしたくない。どんな言葉も取っておきたい。彼に言うために。

「息をつけ。」
 と承太郎が言う。肩に手。大きな手。温かく重い。力を籠めているのかもしれない。
 そうだ。そんなに焦って言うことはない。話すことは当面、無限と思えるくらいにあるけれど、僕らはもう戦っていない。僕も彼も血を流してはいない。夏休み間近の土曜日の昼下がり、こんな時間の中にいると、僕らは既に永遠を手に入れたような錯覚すら起きるのだ。
 花京院典明はす、と黙る。溢れて止まらなかった言葉は空中に静かに吸われて消えてしまったようだ。次第にごく静かな息をゆっくりとつく。暫くの沈黙。
 そしてその後で、ゆっくりとほどけるように微笑んだ。

 微笑んだ、その顔に、又背筋がゾクリと凍るような、こめかみが熱くなって目が眩むような感じがして空条承太郎は思わず踏む床を確かめた。
 なんだ、これは?
 肩から腕が強張っている。知らぬ間に、力が入っていたらしい。慌てて解く。底無しの瞳で不思議そうに見上げる友人を放して、その手をポケットにつっこんだ。
 そろそろ西日になって差し込む熱が背中まで届く。シャツの中で又汗が一筋流れる。熱い。太陽の所為だろうか?
 逢魔が刻にはや近く、恐るべきは真夏の陽。平屋建ての台所には青年がふたり、涼しくきゅうりを刻む音がする。


+後記+
 これは紐九ダリア様の「ギャランドゥ・理想論」にて、8月31日から一週間限定で開催されていた夏祭りに奉納させていただいたものです。そうそうたるお歴々に囲まれて新参者は随分みっともなくて恐縮だったのですが、しかし素敵に装丁していただいて感涙ものでした。何をかくそう初めて書いた承花であります。青臭いのはご容赦を。じょ、承花書いちゃったよ、ドウシヨウ、と年甲斐もなく恥じらってしまう位置付けに、承花というCPはあるのであります。もうあの、(ここで一呼吸)花京院典明というキャラクター、そしてかれに対するにあの、(そう、あの)空条承太郎という人物を考えたとき、考えても考えても深くて汲みつくせない、しまいにゃ胸がつまって何も言えないよ、というように聖域なのです。だからわたしは素敵な承花サイトを回っている時は本当に幸せなのですが、なかなか自分で書く勇気は出ないのであります。でもまあ稚拙だが一発目を書いてしまいましたよ。愛は形にしていく方がわたしの性分には合っているので、ひっそりと次も出来るといいなと思ってもいます。
 聖句引用で始まるのは「漁師の息子」でやって面白かったのがひっぱっているのです(笑)さすがに聖書は噛み応えのある好きな言葉いっぱいあるから、本気でシリーズ化しそうですが立場的にやばいだろうわたし。


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