恋は桃色
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###本文の前に、ぜひ「夜歩く - prior episode -」をお読みくださいませv###







 暗闇に焦がれる午後の星のように夜を待って、オレは自分のベッドを抜け出した。反対側のベッドの章三が深い眠りに入っているのを確認すると、椅子に掛けておいたコートを手にそっと扉をあける。ちいさな常夜灯だけの廊下を足音を殺しつつ抜けて、深更の静まり返った階段で優しい暗闇に息をつく。踊り場の床にくっきりと陰影を描いて、十字の影を形作っている窓枠を見上げ、明かりとりの向こうの夜空を仰ぐ。月光の力強さに、今日は満月なのかなと思う。少なくとも晴れてはいるのだ、と安堵する。はやる心を抑えながら、わざとゆっくりと階上をめざす。
 屋上に出た瞬間、白い風に吹きつけられたような気がして思わず目を閉じる。向い風をやりすごし、静かな闇の中を首をめぐらせて捜す。いた。
 一歩、また一歩。夢ならば覚めないようにと、ことさらにゆっくりと近づいて、たよりないその背中に、オレはおそるおそる呼びかける。
「……葉、山?」
 すぐに振り返り、託生はにこっと微笑んだ。
「崎くん。月が、すごくきれいだよ」











‐   夜     歩 あ  る     く  ‐












 月の光の中でも、祠堂の空にはたくさんの星が見える。山奥と呼ばれる環境の祠堂だからこそ、楽しめる醍醐味のひとつだ。
 託生は手すりに腕をのせ、冬も近いというのに、寒そうにもせず夜空を見上げている。昼間は極端なほどの寒がりのくせに、月の下の託生は環境には一向に無頓着だ。普段の彼だったら、たぶん夜間にこの気温で外に出ようなんて思いもしないだろうと思う。
 けれど、それを指摘することは出来なかった。かわりに他愛もない話をふってみる。「今日、英語であてられてたろ」
「うん。予習のとき、利久に聞いておいたんだけど、間違ってたみたいだ」
「今度から……オレに聞けよ。教えてやるから」
「そっか、崎くんアメリカ人だもんね」
 屈託なくそう返す笑顔は、友人の片倉の隣りでさえ見たことがないような表情をしていて、少し頭がクラリとする。
 夜空をじっとみあげる託生から、オレは一瞬も目が離せなかった。




  * * *




 あの秋の夜、グラウンドで邂逅した託生を見失ってから、オレは混乱しながらも目にしたものをなんとか理解しようと考えた。もしかしたらオレは幻でも見たのかもしれないし、あるいは瞬間に眠りに落ちて夢でも見ていたのかもしれない。けれど、そうではないとしたら。あのときすれ違ったのが、当に本物の託生だったとしたら――
 その可能性を、恐れるように願うようにオレは一日を過ごした。そしてきっかり二十四時間後、つまり翌日の夜、オレはふたたびこっそりと部屋を抜けだした。しばらく廊下の向こう、託生の部屋の方角ををそっと伺っていると、やがて部屋のドアが音もなく開き、案の定託生がするりと姿をみせた。
 ためらいもなく廊下を歩き出す様子に、オレはあわててその後を追った。迷いのない足取りに、どうやら意識はしっかりと覚醒しているようだと推測する。前の夜にはオレの姿さえ見えていないように思えたけれど、あれもたんに無視されただけだったのかもしれない。
 気持ち急ぎ足で追いかけて、階段を降りようとする託生にそっと声をかけてみた。
「なあ、こんな時間に何してるんだ?」
 けれど託生は歩みをとめることもなく、すぐに階段を降り始めてしまう。オレはあわてて後を追った。
「おい、葉山?」
 託生は無言のまま玄関へと向かい、室内履きのまま平気で外へと出て行ってしまった。
 あわてて靴をはきかえてその背中を追いかけながら、目の前を行く託生がそういえば寝間着のままだなと気づいてぞっとした。あれだけ寒がりなのに、これが正常な状態であるはずがない。
「葉山っ!」
 オレは思い切って、彼の前に回りこんで、そこではじめて彼の表情を見た。感情のうかがいしれない、夢を見ているようなまなざし。たぶん、いわゆる夢遊病というやつなのだろう。託生の意識は眠ったまま、身体だけが起きて動いている――けれど、なぜだ?
 託生はこちらを一顧だにせず、オレの脇をすり抜けてまっすぐに歩いて行く。オレの言葉などまるで聞えていないらしい。声が届かないことに、そして寒がりの彼がこの秋の夜を寝巻き一枚で歩いていることに焦ってしまう。何度声をかけても歩みをとめられないもどかしさに、オレは思い余ってその腕に手をかけた。接触嫌悪症の彼の腕に。
 けれど、託生は素直に立ち止まって、オレの手をふりはらいさえもしない。却ってぎょっとしてしまい、オレは動揺で手を離さなようにするのが大変だった。
「寮に帰るぞ」
 今度はまったく動かなくなってしまった託生にふたたび不安がきざし、オレは懸命に言葉をかさねた。
「もしかして、昨日落としたものを探しに来たのか? 何だか知らないが、明日、オレが探してみるからさ。今日はあきらめて、もう寝ろよ」
 そう言いながらそっと腕をひくと、託生はやっとこちらに顔を向けた。重ならない視線、けれどオレが手を引いたまま歩き出すと、あっさりとついてきた。最前からの混乱で、どんな形であれこうして彼に触れられたというのに、オレの心にはうれしさよりもただただ動揺ばかりが生まれていた。



 次の朝食堂で託生を見かけて、普段とまるで変わりない様子にほっとしつつ、逆に不安も覚えた。
 あれが夢遊病であるとしたら、本人も気づいていないのかもしれない。隣にいる同室の片倉も、おそらく知らないことなんだろう。
 考えたすえ、その日からオレは、夜歩く託生を見張ることにした。昼の間にグラウンドの落しものが見つけられなかったから、ということもある。夢遊病が出るのは毎晩のことではないようで、数夜に一度、部屋をさまよい出る託生を追いかけ、部屋に連れ戻す。行き先もさまざまで、寮の外まで出ることもあれば、寮内だけで終えることもあった。初めて会った夜、グラウンドの脇でなくしたものを探すために夜毎出歩いているのかと思っていたのだけれど、どうもそういうわけでもないらしい。
 オレは毎夜、夜の廊下で託生を待った。託生は部屋を出てすぐにはとめても歩き続けようとして、どうやらある程度の距離を歩かないと納得して部屋に戻らないようだった。だから外にまで出てしまった場合のために、オレは自分のジャケットを持っていくようにした。託生が外に出るようなら、あるいは気温があまりに低いようなら、彼の肩にかけてやるために。
 そんなことが何度かあった後のある夜、託生はいつもとは違うルートをとり、階段を上階へと向かっていった。寮の屋上へのカギが開いていることは知っていたので、やっぱり見はっておいてよかったとオレは少しほっとした。夢遊病のまま、もしも屋上をかこむ柵を越えでもしたらとんでもないことになってしまう。託生が屋上への扉に手をかけたタイミングで、オレは手にしていたジャケットを彼の肩にかけてやった。
 託生は動きをとめ、不思議そうにこちらを見た。黒い瞳は確かにこちらを見つめていて、オレは動揺した。それまでずっと、声をかけても返事はもちろん反応さえなく、視界に入ろうともこちらが見えていないかのような状態だったのに。
「外、寒いだろ?」
 言い訳のような説明のような、なんともあいまいなオレの言葉に、託生は少し首をかしげ、そのまま屋上へと出ていった。
 その日から少しずつ、託生はオレと向かい合うようになっていった。声をかけたとき、帰りを促そうと手をひいたとき、ふっとこちらをまなざす託生に、なんとも言い知れない感情がオレの中に生まれる。彼がオレを見てくれる、触れても嫌悪症が出ることもない。これまで昼も夜もなしえなかった経験に、オレは少しづつ慣らされていった。
 そうしてその日、やっぱり屋上で、彼の肩にジャケットをかけてやった時、いつものようにこちらをみつめてから視線をはずした彼が、ぽつりと呟いた。
「……ありがとう」
 ……彼にとっては、これは夢なんだ。
 明日になれば忘れてしまう、いや、そもそも彼にとっては現実には起こらなかったことに等しい。
 頭ではそうわかっているのに、たとえようもない幸福感が胸に沸き起こる。
 この異常な状況を、オレは最早おかしいとは思わなくなっていた。





後篇につづく)



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